2008年5月16日金曜日

日々の暮し ≪Part6:面白い話-2≫_Daily living_Interesting short tale_

今日は、前回の”面白い小話”_Interesting short tale-2_の続きを紹介します。
<話-1>
学校の通学路の途中に、「ドライバー諸君、きょろきょろするな 美人はいない」という看板がある。
<話-2>
バイト先で、特売の抱き枕を¥1,000で売り場に出していたところ、あるおばぁちゃんが近寄ってきて「これ、腰にもいいらしいじゃない。やぁ、安いわぁ」と感動していた。
「お客様お買い得ですよ、それに抱くと気持ちいいですし・・・」と爽やかに応えると、「(抱きながら)ホントだわ。でも抱くより抱かれたいわぁ。イッヒッヒ」と言い、「あの人のことを思い出そうかしら・・・」と丸くなった腰でレジに向かって歩いていった。
ほほえましい光景だった。
<話-3>
商品のクレームをつけにお客さんが「責任者を出せ!」と、えらい剣幕で店に入ってきた。
彼は,、店長(若干頭が薄い)が出てきたのを見つけて「てめえ、ハゲとる場合じゃねえぞ!」と言った。
笑っとる場合じゃなかったが、店員一同、笑いを抑えられなかった。
<話-4>
総合病院に行った時「ご自由にお飲み下さい」と書いてある給湯機の横においてある紙コップが無くなった。
看護婦さんが「紙コップが切れてしまいましたのでこれで・・・」と言いながら持ってきたのは、尿検査に使う紙コップだった。
<話-5>
家の近くの94才の爺さんは、毎日自転車で出かける。
出先を聞くと近くの老人ホームだった。
「そんなに毎日行くほど楽しいの?」と聞くと「7、80の若い女性がたくさんいる」とのこと!
なるほど・・・
<話-6>
私が中1のころ、理科のテストでこんな問題が出た。
『理科主任の○○先生は、タレントでいうと誰に似ているか?』
私は、しょうがなく人気スターの『木村拓哉』と書いたところ、花丸を貰った。
だがT君は、『地球外生命体.猪木』と書いたら、後で職員室へ呼び出された。
正直者は馬鹿を見ると言うことを、私は思い知った。
どうでした、今回もユニークな話に笑って頂けましたか?
今日は、ココまでになります。
また、次回のブログでお会いましょう。

2008年5月12日月曜日

日々の暮し ≪Part5:面白い話≫_Daily living_Interesting short tale_


今日は、皆さんに一時リラックスした時間を過ごして頂こうと思い、面白い小話_Interesting short tale_を紹介します。
私がWeb上で偶然見つけたお話です。
.............................................
<話-1>
うちの母は、頭が痛くなると氷でおでこを冷やします。先日も夜中にかなり痛みがひどくなり、暗闇の中をフラフラしながら台所 へ。
冷凍庫から、あらかじめビニール袋に入れてある氷を取り出して、おでこにのせ て眠りました・・・。
翌朝、目が覚めてみると、母の枕元には解凍されたイカが転がっていま し た。
<話-2>
先日、父は、男にフラれて落ち込んでいた姉をなぐさめようとして、「おまえ、人間は顔じゃないぞ」 と言うところを、「おまえの顔は人間じゃないぞ」 と言ってしまった。
<話-3>
家族揃って夕食をとっているとき、何かの拍子に怒った父が、「誰のおかげでメシが食える と 思ってるんだ」といおうとして、「誰のためにメシ食ってんだ!」 と怒鳴った。
私と姉は 「自分のためだよ」 と答えた。
<話-4>
弟は、誰に似たのかとても勉強ができる。
それで、高校1年生のとき、アメリカに留学することになった。
そのとき、母は親戚や近所の人に 「うちの息子アメリカにホームレスやるんですよ」と 言って、 自慢して歩いていた。
ホームステイとホームレスを間違えていたのである。
<話-5>
うちの母がテレビを見ていると、美人のアナウンサーが出てきた。
母は、「こんな人が嫁に来てくれるといいわ」と言ってニコニコしていたが、ウチの家族で男はお父さんしかいない。
母は、いったい誰の嫁がほしいのだろうか・・・・・。
<話-6>
父が入院することになって、病院に予約を入れて自宅で待機していたら、思わぬ早さで連絡が来て、「明日から入院して下さい」。
突然のことで、心の準備が出来ていなかった父は、思わず「今、ちょっと体の具合が悪いので、少し延ばしてもらえませんか」と言ってしまった。
病院も何の疑問を持たず父の要望を受け入れた。
<話-7>
弟は中学時代野球部で、監督から「お前はうちの秘密兵器だ」と言われ3年間、本当に秘密にされてしまった。
.............................................
どうでした、日本のユニークな話に笑って頂けましたか?
また、面白い話を見つけたらブログで紹介します。
今日のお話しは、ココまでになります。
読んで頂いてありがとう。また、次回のブログでお会いましょう。

2008年5月10日土曜日

日々の暮し ≪Part4:新聞記事の疑問≫_Daily living_doubt of the newspaper article_


今日のお話は、私が新聞_newspaper_を読んでいて疑問に感じた記事を紹介します。
<記事>『ネコを飼うと心臓発作を起こす確率が減少する』
これは、米国の研究機関が4300名を対象として10年間に渡る統計調査の結果、 ネコを飼っているいる人は心臓発作を起こす可能性が、そうでない人に比べて3分の1も減少していることが 調査により判明したそうです。
研究グループでは心臓疾患の場合、長期間に渡る精神的ストレスが血管に悪影響を及ぼし、それが原因の一つとなって心臓発作などに至ることが知られている、とした上で、ネコなどのペットを飼うことによって精神的ストレスが解消_Stress-relieving_されるなどの良い影響を人に与えてきたことが原因で調査結果につながったのではないか、と述べています。
その上で、ネコなどのペットを飼うことは安上がりの心臓病予防につながると結論付けているのです。
ただし、犬を飼っている人は飼っていない人に対して明確な心臓疾患発症率の減少の結果は見られなかったとも述べていて、猫以外のペット動物の効果に関しては今のところ不明だそうです。
なぜ、犬よりか猫なのでしょうか?
私は、犬も猫も飼った事がありますが、犬は人間と一緒に散歩したり、戯れたりするので人間との関わりが猫よりも深いと思えるのです。
猫は、餌を食べる時だけ人間と関わりますが、その他の時はいつもマイペースの生活態度で暮らしているように思えて、癒される感じは犬の方が大きいと思うのです。
私は、この記事を読んだ時に犬と猫が逆ではないかと疑いました。
この様に思うのは私だけでしょうか?
皆さんは、犬と猫ではどちらの方が精神的ストレス_Stress-relieving_が解消されると思いますか? 今日のお話しは、ココまでになります。
読んで頂いてありがとう。また、次回のお話しでお会いましょう。

2008年5月8日木曜日

日々の暮し ≪Part3:珍しい大会≫_Daily living_Unusual event_

今日は、静岡県内のニュースで私が注目した記事を紹介します。
☆最初の記事は、「ロボカップジャパンオープン:サッカー」_Robot_Soccer_です。

静岡県の東部にある沼津市では、ロボカップジャパンオープン:サッカー、_Robot Cup_Soccer_が開かれました。
人間顔負けのロボットによる競技大会「ロボカップジャパンオープン」が3日、沼津市大手町のキラメッセ沼津で始まったのです。9回目で初の県内開催となる今大会では、ジュニア部門も含め、国内外から209チーム、742人が参加して、自律型ロボットによるサッカー対戦や災害時の人命救助を想定したレスキュー競技などで、熱戦を繰り広げたのです。
ロボカップ_Robot Cup_は人間のサッカー _Soccer_世界一チームに勝つことを目的に、各国の研究者が97年に始めた大会です。
この日に行われたサッカー_Soccer_の中型ロボットリーグでは、高さ80センチ、カメラやパソコンを内蔵した四角すい型のロボット_Robot_が1チーム5~6台で、人の手を借りずに自分で判断してボールを奪い合いました。シュートの跳ね返りを計算して位置取りするなど、人間顔負けのロボット_Robot_のプレーに、沼津市大手町の小学生などは「自分たちがやるサッカー_Soccer_みたい」と目を輝かせていました。
4日目からは県内の小中高生10チーム19人が参加するジュニア部門も沼津市民体育館で行われたのです。
大会は5日まで行われました。

☆次の記事は「浜松まつり:大だこ大空に舞う たこ揚げ大会_kite-flier_event_」です。

静岡県の西部にある浜松市では、勇壮なたこ揚げ合戦と豪華な御殿屋台で有名な「浜松まつり」が3・4.5日の3日間、同市内で行われました。
たこ揚げ_kite-flier_には過去最多タイの172町、御殿屋台引き回しには過去最多の110町が参加して、5日までの期間中、約150万人の人出で賑わいました。
たこ揚げ会場_kite-flier_event_の中田島砂丘では、晴天に恵まれたが風がほとんどなく、各町とも苦戦の滑り出しに巧みなたこ糸さばきを駆使して、開会宣言から約3時間後の午後2時過ぎに、やっと色とりどりの大だこが青空に舞ました。
また、今年は日本からブラジルへの移民_Brazilian emigrant_100周年を記念した大だこも登場して「日本ブラジル交流年」のロゴマークなどが描かれた大だこを、法被と地下足袋姿の浜松市の職員やブラジル人住民_Brazilian_らの約90人が舞い揚げたのです。
日伯移民100周年記念事業浜松実行委員長の石川エツオさん(46)は「100年という記念のたこが揚がるかドキドキしたが、みんなと揚げられて良かった。今度は次の100年を切り開いていきたい」と笑顔で話していました。
午後5時からは、市中心街の鍛冶町通りで記念のサンバパレード_samba parade_も開かれて、約250人の地元サンバ隊が練り歩き、祭りを盛り上げたのです。
今日のお話しは、ココまでにします。
また、次回のお話しで会いましょう。

2008年5月5日月曜日

日々の暮し ≪Part 2:最悪の1日≫_Daily_living_Worst 1st_




私の娘は、今年の4月から私達が住む静岡から130km離れた神奈川にある大学_university_に入学して下宿生活_rooming house life_をしています。
娘から「下宿生活も慣れて、入学時に運んだ荷物で不要な物を家に運びたい」と連絡を受けたので5月2日のゴールデンウイーク連休の前日ですが、私は妻と一緒に車で娘を迎えに行きました。
家を朝の7時30分頃に出発して高速道路_highway_と一般道路_general road_を走って行ったのですが、高速道路_highway_のサービスエリヤ_service area_で最初の事故が起きたのです。
私は、サービスエリヤの駐車場に車を止めようとしたのですが、満車だったので駐車場内で空くのを待っていました。
そして、私の車の直ぐ後ろの右側スペースが空いたので、車をバックで入れようとした時、私の車の左後方に2m程離れて止っていた車の存在を見落としてしまい接触_car accident_したのです。
そして、双方の車のバンパーに傷が付き塗料が少し剥がれました。
相手の方と事故処理について話し合った後、私達夫婦は、娘の所へ向かいました。
途中、高速道路_highway_から一般道路_general road_へ入った頃に、それまで曇っていた空から小雨が降り出したのです。
そして、娘のアパートに正午頃に着いたのですが、娘は大学_university_から帰るのが16時30分頃と分かっていたので、私と妻は時間潰しに川崎の街に昔からある川崎大師というお寺へお参りしようと、初めての道を地図を頼りに行きました。
お寺では、サービスエリヤで車の接触事故を起こしてしまったので、帰路は安全に無事帰宅できるようにお祈りしました。
そして、私と妻はそれぞれ”おみくじ”を引いたのですが、結果は二人共同じ”凶”という悪い占い結果だったのです。
私達は、気を取り直して娘のアパートへ向かって帰りましたが、途中の道で迷い”進入禁止”の道路に入ってしまい、警察官に止められ交通違反_traffic violation_の注意と6,000円の罰金支払いの切符を切られたのです。
私にとっては、今日2度目の”悪い出来事”が重なり、気分が最悪になりました。
私と妻が、娘が待つアパートに着いたのは19時頃になってしまい、周囲は暗くなり、雨は本降りの状態でした。
娘と荷物を乗せて、私達家族は静岡への帰路についたのですが途中のコンビニに寄った時でした、車のボンネット前方から水蒸気が吹き上がったのです。
私は、雨がエンジンの熱で蒸気になったと軽く考えて、車から降りて買い物を済ませて再び走り出したのです。
すると、500m程走った所で車の水温計が最高の位置に上がってしまい、再びボンネットから水蒸気が吹き上がったのです。
私は、直ぐに車を路肩に止めて雨降りの中でボンネット開けると、ラジエーターから蒸気が勢いよく出ていて、エンジンの冷却水は殆ど無くなりオーバーヒートの状態だったのです。
私は、日本自動車連盟 (JAF)の会員でしたので、直ぐにJAFに連絡をして救援を求めたのです。
40分程過ぎてJAFの人が到着して故障箇所を修理して頂きました。
私は、JAFの人から「故障の原因は、エンジンとラジエーターを結び冷却水を送る管がラジエーターから外れて、冷却水が殆ど流れ出てしまったから」と聞いて驚きました。
そして、JAFの人から「今日の修理は、応急処置の状態だから高速道路_highway_は避けて一般道路_general road_を水温計に注意しながら帰ってください」と言われたので130kmの道のりを3時間以上かけて静岡の自宅に戻ったのです。
以上のように、1日の間に「1.車の接触事故」_car accident_、「2.交通違反で罰金」_traffic violation_、「3.車の故障」_car trouble_ 、「4.天候の悪化」_weather aggravation _と、私にとって悪い事が4つも重なり、今まで経験した事の無い最悪の日_Worst 1st_となりました。
この日は、カレンダーによると「大安吉日」で良い日のはずが、お寺で私達夫婦が引いた”おみくじ”の占い結果の”凶”の日となったのです。
私は、この日の事は一生忘れる事は無いでしょう。
皆さんも自動車の運転_car driving_ には注意してください。
今日のお話しは、ココまでにします。
また、次回のお話しで会いましょう。

2008年5月1日木曜日

日々の暮し ≪Part 1:感動のテレビ番組≫_Daily_living_TVprogram_impression_

今日から、このブログで”日々の暮し”と題して、日常の生活において私が見た事、知った事、感動した事、怒った事などを報告します。
それでは、今日は感動したお話しをします。_story_impression_
私は、今日もいつものようにテレビを見ながら昼食をしました。
そして、その時放送されていた番組_TV program_のゲストの話しに、私は感動_impression_したのです。
その番組_TV program_は、司会者とゲスト3人によるトークショーで、ゲストの1人が男優のT・Kさんでした。
番組_TVprogram_の内容は、司会者が各ゲストにそれぞれ異なるテーマをぶつけて、ゲストがそのテーマに沿った話をするのです。
司会者が、彼に与えたテーマは「気になる数字」でした。
彼は、気になる数字は「41」と言い、テーマに沿って話した内容は、次のような事でした。
男優の彼は、四国の高知県土佐町の出身で、幼い頃から母1人子1人の家庭で育ち、彼の母親は41歳で亡くなったそうです。
彼は、母親が亡くなった時、またその後も涙を流したことが無かったそうです。
彼が育った田舎では”男は涙を見せない者、泣かない者”と言った言葉があり、そんな風土の土地で育ったので泣かなかったと言ってました。
また、母親が亡くなり18歳で1人ぼっちになった彼は、今日までガムシャラに頑張って生きて来たのです。
今年、彼は43歳になったそうです。また、彼の奥さんは41歳で彼の亡くなった母親と同じ年齢になったとの事です。
彼は、最近起きた事として「ある日、妻と並んでテレビを見ながら寛いでいた時、ふと妻を見たら涙が流れて泣いてしまった」と言ったのです。
司会者は、「その時、奥様は何か言いましたか?」と質問したら、「彼女は、黙っていました・・・」と答えました。
また、彼は「今まで、母親は自分より遥かに年上の人と思って生きて来て、自分の横にいる妻が亡くなった母親と同じ年齢なのに”若く、美しい”と思ったら、何故か?自然に涙が出て来てしまった」と言いました。
その話しが終わると、少しの間沈黙が流れました。そして、この話しを聞いていた他のゲストの中には目を潤ませた人もいました。
男優の彼は、そんなに多くは語らなかったのですが、私は妻を見て涙を流した彼の気持ちが解り過ぎる位に理解できました。
彼は、自分の妻の年齢を知り、妻と母親が重なって見えたのでしょう。そして、母親が若くしてこの世を去った事に初めて気付き、たった一人の息子を残してこの世を去る無念さ、別れの悲しみ、心残り等の母親の気持ちを理解したのでしょう。
私は、この話を聞き終えた時「もし、私が彼の境遇に育っていたら、きっと彼と同じ様に涙したであろう」と思い、胸が熱く切ない気持ちになりました。
最近では、テレビ番組_TV program_で感動させられる事は殆ど無かったのですが、私はこの短い話には大いに感動しました。
彼は、話しの最後に「その日を境に、以後テレビドラマ_TV drama_などを見ると直ぐに涙が出て泣き虫になってしまった」と言ってました。
これは余談ですが、私は男性が泣くのは難しいと思うのです。泣き過ぎると”女々しい男”と言われ、泣かないでいると”冷たい男”だと悪く言われそうに思うのです。
それに比べて、女性は泣き過ぎても”なんと優しい女性だ”と言われ、泣かなくても”泣きたくても我慢している女性”と良く言われるのです。女性の涙は、得ですね。
この様に思うのは、私だけでしょうか?
皆さんはどう思いますか?
今日のお話しは、ココまでにします。次回もよろしくお願いします。

2008年4月30日水曜日

俺の回想録 ≪Part38:時代の変化≫_Change of the times_

今日は、私がブログPart1~前回のPart37まで”俺の回想録”と題して記載してきた事柄の総集編として、自分が生きてきた社会の環境変化について思い付くままに書いてみようと思います。
そして今回で”俺の回想録”_reminiscences_は終わりにして、次回からは”日々の暮し”_Daily_Living_ と題して、私の現在の生活_Life_において見た事、知った事、感動した事、怒った事などを書きたいと考えています。
それでは、私の回想録_reminiscences_の総集編に入ります。
私が住んでいた1955年頃の静岡の田舎町では、国道はコンクリート舗装されていましたが、その他の道路は砂利道で舗装されていませんでした。
自動車も少なく、殆どが作業用の車でトラックやオート三輪車で乗用車は走っていませんでした。
また、人々の移動はローカルバスを利用するか自転車でした。道路は、自動車が走り去った後には砂埃が舞い上がったものです。
また、家の周辺には田んぼが広がり農家の作業に牛や馬が使われていました。
夏の夜には、どこにでも蛍の飛んでいるのが見られました。
住宅の外壁は、木の板貼りか、トタン張りが殆どで、各家の台所には釜戸があり薪でご飯を炊いていました。
水道設備は無く、各家庭ではポンプか井戸で水を汲み上げていました。
当時は、暮しにおいて経済・物資共に現代より貧しかったけれども生活ペースが遅くて、人々は伸のびと暮らしていたように私は思います。
そして、現代のように生活ペースや変化が早くなったのは、自動車が普及した事が基因になっていると考えます。
道路は、「砂利道」⇒「タール舗装(簡易舗装)」⇒「アスファルト舗装」へと変わりました。
私は、コンクリート舗装された国道をバスに乗って通ると、舗装の継目でゴトン、ゴトンと音がしたのを覚えています。
次に、服装の変化ですが一般には人々の衣類が高級品を着れるようになったのですが、私は一般家庭のお母さんの姿も変化して来たと思います。
それは、私達が子供の頃”お母さんの姿”は着物の上に割烹衣を着て、頭に手ぬぐいで姉さんかぶりをした姿です。それが、スカートにエプロン姿 ⇒ Gパン姿 に変わったのです。
また、1960年頃までは一般家庭で電化製品_electric appliance_と言われるものは”ラジオ”くらいしかありませんでした。昔の電気屋さん_Electricity shop_は、電球とラジオの販売及び照明の配線工事が主な仕事でした。
人々は、”電気屋さん_Electricity shop_”のことを”ラジオ屋さん”とも呼んでいました。
私は中学生の頃、お小遣いでラジオ_radio_の部品を購入しては、ラジオを組み立てた事があります。
ラジオも「鉱石ラジオ」から⇒「ゲルマニュウムラジオ」⇒「トランジスタラジオ」⇒「真空管ラジオ」⇒「ICラジオ」へと変化して性能が向上していきました。
次に、1965年頃までは学校で配る「お知らせ」や「テスト」などのプリントは、先生方の手でガリ版印刷されたものでした。
それが、今ではワープロ印刷に変わったのです。
私も小・中学生の時に、先生の手伝いをして手が黒インクに染まった事を憶えています。
以上の様に、変化して来た物を挙げれば限がありません。
むしろ、変化して無い物を探す方が難しいのです。
私は、世の中が経済的にも、物質的にも豊かになって人間は本当に幸福になったのだろうか?と疑問に感じるのです。
1960年代は1ドル=360円の時代で、一般の人々は経済的に豊かではなかったのですが、優しさと気配りの心を持って周りの人と助け合って生活をしていたように思います。
社会全体が貧しかったので、個人が貧しさを感じる事もなく、貧しさゆえに夢は多く持てた時代でもあったように思います。
現代は、経済的にも、物質的にも豊かになり生活も便利になりました。
そして、周りの人からの助けや気配りの心も、そんなに必要とはしなくなりました。
私は、世の中が便利になった分だけ人々から夢と感動が消えて無くなったと考えるのです。
人の幸福は、経済的・物質的な豊かさ、生活の便利さ等では無いと思います。
人は、いかなる環境であっても、その時の幸福感の基準を何処に置くかで感じ方が異なると思うのです。ですから、「昔より現代の方が幸福だ!」とか、「いや昔の方が幸福だ!」とは一概に言えないと思います。
私は、「人間は生まれたらその環境の中で生き抜くしかない。また、幸福になる(感じる)のは、その人の気持ち次第である」と、自分の考えを記して、この回想録_reminiscences_の最後の言葉とします。
次回からは、タイトル: 日々の暮し_Daily_Living_ の報告になります。

2008年4月28日月曜日

俺の回想録 ≪Part37:子供の誕生≫_Baby_Born_

今日は、私達夫婦が結婚して子供が生まれた時のお話しです。
私達が結婚_marriage_したのは、私が35歳で、妻は33歳の時で一般の人達と比べて遅い結婚でした。
私達は、年齢を考えると子供は直ぐに欲しいと思っていました。
また、私は、結婚すれば子供は直ぐに出来る_baby_born_ものと考えていました。
しかし、2年間過ぎても子供は出来ませんでした。
その間、妻は病院_hospital_で調べて頂いたのですが異状は無くて、私にも「病院で1度調べてもらいましょう」と妻に言われました。
私は、恥ずかしい気持ちになり仕事を理由にして行きませんでした。
3年目になり、私は年齢的に子供を授かるのは難しいのかと思い、少し諦めのような気持ちで妻に「子供が授かるのは、気長に待つ事にしよう」と言いました。
妻も「そうね、そうしましょう」と言って、お互いに子供が授かる事を意識しないで生活を始めた時でした。
妻が「今月も生理が始まったみたい」と、私に言ったのです。
私は、心の中で「今月もだめか、まあ~しょうがないか」と思い、少し残念な気持ちでした。
次の日、妻が「何故か?今月は生理が少ないのよ」と言ったのです。
そして、1ヶ月以上が過ぎて妻は「今月は生理が遅れているの」と言ったのです。
私は、「もしや!」と思い、家にあった”家庭の医学”_Domestic medicine_という本で”妊娠”_pregnancy_について調べ、その後に妻が薬局で”妊娠を調べる品”を購入して調べて見ると妊娠_pregnancy_の結果が出たのです。
次の日、妻は妊娠_pregnancy_を確かめるために病院へいきました。
私は、会社で1日中仕事が手に付きませんでした。
帰宅して、妻から「妊娠だって」と聞いた時は”高額宝くじ”に当った様な喜びと、「俺もついに父親になるのか」という少し不安な気持ちになりました。
そして、10ヶ月後に無事に元気な男の子を授かった_baby_born_のです。
子供が産まれた日、私が病院のベビー室の廊下でガラス窓から子供を見ていると、義兄が手に新聞紙を持ってやって来ました。
義兄は、「記念にと思い、今日販売された各新聞紙_newspaper_を全部買って来た。この子が大人になった時に見せてやれば、自分の誕生日の様子が分かるから」と言って、私の手に渡してくれたのです。
私は、今でもその新聞紙_newspaper_をビニール袋に入れて大事にしまってあります。
妻が長男を出産_delivery_した後、私と妻と子供の3人での生活が始まり2ヶ月程過ぎた時です。
妻が、近所に住む奥さんが「妊娠中で、年子だって」と、私に言ったのです。
その家は、我が家より3ヶ月程早く子供(長男)が産まれていました。
私は、「あの家は、ご夫婦が若いからな~」と返事をして、その時は知らなかったのですが、すでに我が家も妻のお腹に2人目の子供が入っていたのです。
そして、近所の家に3ヶ月程遅れて妻も長女を年子で出産_delivery_しました。
私は、2人の子供が産まれた時に不思議に思った事があります。
それは、病院のベビー室のガラス窓をとおして産まれた子供と初めて対面した時でした。
それまで、目を閉じて寝ていた子供が目を開いたのです。
そして、しばらくして目を閉じたのですが、私にはまるで子供が自分の父親の顔を確認したように思えたのです。
長男が産まれた時と、長女が産まれた時にも、まったく同じ経験を2回したのです。
産まれて直ぐの子供の目は、何も見えないと思うのですが、あれは偶然だったのか?今でも不思議に思っています。
あれから19年が経ち、今2人の子供は大学生_university student_になっております。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part38:時代の変化_change of the times_と題して、昭和に生まれて平成の今日まで58年間での社会環境の変化についてお話ししたいと思います。

2008年4月26日土曜日

俺の回想録 ≪Part36:新婚旅行≫_Reminiscences_honeymoon_

今日は、私達夫婦の新婚旅行_honeymoon_のお話です。
私達は、結婚式_wedding ceremony_まで準備に時間の余裕が無かったので、毎週日曜日は式場との打合わせでした。
そんな、私達に”幸運な出来事”が起きたのです。
私達の新婚旅行先は、「ハワイ6日間コース」で出発日は式の翌日の予定で申込んであったのですが、式場のミスで新婚旅行の出発日は2日後になっていたのです。
その為、結婚式場の方から旅行先の変更をお願いされて、料金はそのままで「カナダ・バンクーバー8日間コース」か「ヨーロッパ8日間コース」のどちらかに決めて欲しいと言われたのです。
私達は、喜んで「ヨーロッパ8日間コース」に変更して、フランス_French_・ベルギー_Belgian_・オランダ_Netherlands_を回って来たのです。
当時、一般に新婚旅行は東南アジアのグァムかハワイが普通で、ヨーロッパまで行く人は少なかったのです。
私達は、結婚式が終わった後に新幹線で東京に向かい、その夜は赤坂東急というホテルに宿泊しました。
次の日、私達は大きな旅行バッグを引きずりながら都内を歩き、上野駅にある旅行会社の集合場所に行きました。
私達の旅行は、旅行会社の計画したパック旅行でしたので全国から新婚さんが集まったのです。
集合場所には、私達の”パリ方面”以外に”ギリシャ方面”及び”沖縄方面”の人達もいました。
集合場所で旅行の説明を聞いた後、全員が複数の大型バスで成田空港に向かいました。
成田空港に着いたのは、暗くなった夕方6時半位でした。
飛行機の出発までには2時間ほどあり、私達は夕食をしたり初めての空港内のお店を見たりして時間を過ごした後、20時半頃の飛行機で成田空港を飛び立ったのです。
私達のように新婚旅行先が”パリ方面”の他に”ギリシャ方面”の新婚さんも同じ飛行機でした。
飛行機は、成田空港からカナダへ、そして北極を経由してヨーロッパに入りオランダのアムステルダム空港に着きました。
そこで”パリ方面”と”ギリシャ方面”に別れて、私達はパリに向かって再び飛び立ち、フランスのドゴール空港に到着したのです。空港では、フランスに在中の添乗員の女性が私達を迎えに来ていました。
私達は、空港から大型バスに乗りパリの街に入りましたが、そのバスに乗ったのは私達を含む5組のカップルだけでした。
そして、この5組のカップルで旅行期間中は行動を一緒にしたのです。
フランス_French_では、市内観光、古城めぐり等をしました。
私達は、パリに着いた夜に食事とショーが一緒になった「リドショー」を見に劇場に行ったのですが、私は食事が終わりショーが始まる時には”時差ボケ”で眠ってしまい、妻に起こされた時にはショーが終わっていたのです。
妻は、私に「フランスへは眠るために来たの?」と言い、少し怒ってい様でした。
帰りにショーを見た客全員に”帽子の形をしたタバコの灰皿”がプレゼントされたのですが、「眠っていたので、この灰皿は高価な物になってしまったわね」と言われ、20年以上経った今でも家で”その灰皿”を見ると、その時の事が思い出されます。
フランスから、ベルギーへは電車に乗って行きました。
ベルギー_Belgian_では、「ブルージュ」の街を観光して有名な”刺繍”を見たり”チョコレート”を食べたりしました。
ベルギーの後は、オランダ_Netherlands_へ飛行機で行き”木靴作りの工場”や”ダイヤモンドの加工場”を見学したのです。
私は、ダイヤモンドの加工場を見学している時に、加工場で売られていた指輪・アクセサリー等の中から記念にと思い、妻に安価な指輪を1つ買いました。
そして、その日の夕方にホテルへ着いて添乗員の方がチェックインの手続きをしている間の事ですが、私達カップルの間に異様な空気が流れたのです。
それは、ダイヤモンドの加工場で指輪・アクセサリー等の記念品を買ったカップルは和やかに談笑していたのですが、何も買わないカップルは笑顔も無く黙ったままでいたのです。
その時、私は「たとえ極安価の物でも、妻はこんなに喜んでくれている・・・買ってよかった」と思いました。
将来、私達の子供(男)が結婚して新婚旅行_honeymoon_に行く時には、妻になる人へこの程度の気配りはするように話したいと思います。
次の日、アムステルダム空港から日本に向けて帰路に着いたのです。
飛行機が成田空港に近づいた時、私は飛行機の中で「あ~ぁ楽しかった旅行も終わりか!明日から現実の生活が始まるのか」と少し残念な気持ちになり、私達の新婚旅行は終わったのです。
私は、帰りの飛行機で「いつか、もう1度パリに一緒に行こう」と言ったのですが、結婚して23年経ちましたが、まだ行ってません。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part37:子供の誕生_Baby_Born_のお話しをしたいと思います。

2008年4月23日水曜日

俺の回想録 ≪Part35:出会いと結婚≫_Reminiscences_Encounter_Marriage_

今回は、私と妻が結婚_marriage_するまでのお話しをします。
父がこの世を去り葬儀も終わり、私達家族も普通の生活が始まりました。
私は、1度辞めた元の会社に再就職できて毎日が充実した生活を送りながら、私もいつしか35歳の独身になっていました。
その間にも、母に私の結婚_marriage_を薦める人も何人かおりましたが、私が三男であった為か?殆どが”婿入り”の話しでした。
当時は、”婿入り”する男性が少なかったのです。
私は、会社の仕事において責任ある立場にもなっており、バブル時でもあり忙しい毎日を過ごしていたので交際していた女性はいなかったのです。
しかし、遅くても35歳までには結婚_marriage_したいと思っていました。
ある時は、2ヶ月間ほど毎週日曜日に「お見合い」をした事もありました。
しかし、私が好んでも相手の方が私を好まなかったり、相手の方が好んでも私が好まなかったりで、双方が好んで結婚がまとまる事は難しく思えていました。
私の周りの人たちは楽に結婚_marriage_しているのに、どうして自分は出来ないのだろうか?結婚_marriage_に縁が無いのだろうか?と思った事もありました。
ある日、私は母の前で「望まれたら”婿入り”しても良しとする」と言ったら、母は”婿入り”に反対したのです。
その理由は、父の弟(私の叔父)が”婿入り”していて、妻方の家族に対して苦労した事を知っていたからです。
母は、私に「昔の言葉_old words_で”米ぬか3合あったら婿入りするな”って言うよ」と言いました。
1985年の夏が終わり、9月に入ったある残暑の日曜日、私は実家の店先で自分の自動車を洗車していると1台の車が止まり、降りてきた60歳位の女性が店の中に入って母と長話しをしてから、お米を買って帰りました。
それから、2~3日過ぎて母は私に1枚の写真を見せたのです。
そこには、つつじの花が咲く花壇に一人で立っている女性が写っていました。
写真の女性は、全身のため顔が小さくてハッキリとは分かりませんでしたが、なんとなく可愛い女性に見えたのです。
母は、「お前が良ければ、今度の日曜日この女性と会って見ないか?」と言ったので、私は会う事にしました。
紹介してくれた人は、この前の日曜日に車で我が家に来て、母と長話しをして帰った女性でした。
そして日曜日、私は約束の時間:午後1時に約束の場所であるレストランへ行きました。レストランは、日曜日なのにシャッターが閉まっていて、その前に1人の若い女性が立っていたのです。
私は、聞かされていた名前の女性か確認して、その場に紹介してくれた人が居なかったので、そのまま二人でドライブに出かけたのです。
ドライブ中に、彼女と色々な話をしました。私は、初対面なのに彼女と会話する自分が自然体で楽な気持ちで話していると感じ、以前からの知り合いのように思えたのです。
お互い意気投合して、デート先ではいつの間にか手を繋いで歩いていたのです。
彼女と最初に出会った_Encounter_9月18日から2日後の3回目のデートでプロポーズをして彼女からOKを得たので、結婚_Marriage_までトントンと話が進み、1ヶ月と少し後の11月1日にはアパートを借りて二人で住み始めました。
そして、12月1日に結婚式_wedding ceremony_を行ったのです。
結婚して数日後、私はあれほど他人同士が結ばれるのは難しいと思っていたのに、楽に結婚できてしまった事で何か運命的なものを感じたのです。
私は、彼女と結婚する運命で生まれて来ていたのではないのか・・・と思えたのです。
現在、結婚_marriage_して23年過ぎましたが、妻は今でも変わらぬ穏やかさで毎日私に接してくれています。
私は、そんな彼女に対して心の中では尊敬して感謝もしています。
私は、親子は血で繋がるが、妻は血の繋がりの無い他人である私の子供を生んで_child_born_くれたのだから、大切にしなければと思うのです。
そして、これから先も同じ平凡で平和な生活_peaceful life_が続くことを願っています。
今日のお話しは、ココまでにします。
次回は、Part36:新婚旅行_honeymoon_のお話しをしたいと思います。

2008年4月21日月曜日

俺の回想録 ≪Part34:辞めた会社に再就職≫_Reminiscences_Reemployment_

今日のお話しは、私が建築の施工技術を学ぼうと建設会社に就職して、工事現場の監督をいていて怪我をしてしまい、その会社を1年弱で辞めた後の話しになります。
私は、会社を辞めてから3ヶ月ほど実家の米屋の仕事を手伝いながら、次の就職先を探していました。_job hunting_
その間に、実家では私が生まれ育った家を建て替える事になり、私は実家の設計計画もしていました。
図面を工事会社に渡した頃に、専門学校_vocational school_に入学する前まで勤務していた会社から1本の電話が入ったのです。
私が、受話器を耳にすると元上司の声で「ヨウ、元気!今実家にいるんだって、最近会社で請けた業務が建築要素を含んだ仕事なのでアルバイト_part-time job_として手伝ってくれないか?」と言って来たのです。
私は、建築の就職先を探していたのですが、見つかるまでアルバイトとして勤める事に決めました。
元の会社での仕事は、私が以前行っていた土木設計業務に建築要素が加わる楽しい仕事でした。
そのため、再就職活動_job hunting_がおろそかになって仕舞いました。
そんな時でした、元気に仕事をしている父の尿が異状な黄色である事に、母が気付いたのです。
母に促され、父が病院_hospital_へ行ったのですが「即、入院」する事になり、母と兄が病院に来るよう呼ばれたのです。
そして、父の病気は「癌」_cancer_で、医師_doctor_から「あと半年の命です」と言われたのです。
その夜、会社から戻った私は母から父の病名を聞いたのです。
私は、それまで”家族の死の宣告”また”癌という病気”はテレビドラマでの話しで、どこか他人の話しのように思っていたので、直ぐには現実として受け止める事が出来ませんでした。
しかし、無情にも現実だったのです。
父の病名は”胆管癌”の末期でした。そのため、胆汁が尿と一緒に体外に出ていたのです。
その頃、私は会社で上司から「もう一度、会社に戻って来ないか?、土木も建築も同じ建設業で、会社としても両方の知識を持った社員が必要だから」と言われていたのです。
しかし、自分は”建築の道”へ進みたいと思って就職活動_job hunting_を会社に内緒で行っていたのです。
父の病気を知ってから、私は悩みました。それは、「息子の私が、就職先が決まっていないアルバイト_part-time job_の状態では、父は安心出来ないだろう」と考えたからです。
そして、私は会社に戻る決心をして、元の上司に戻る意思を伝え、会社の正社員となったのです。
父の手術は、8時間以上かかり「悪いところは全て取り除きました」と医師_doctor_は言いました。
手術が終わって1月程して、父は退院しました。
しかし、入院直前まで元気だった父が退院の時からは体力も弱り、痩せて本物の病人になってしまったのです。
父が退院した時には、実家は新築していたので、父は私の設計に満足してくれました。
そして、父に元の会社に戻った事を報告したら、父はただ黙って頷きました。
その時、父はどの様に思ったか?私には知る事が出来ませんでした。
退院後、父は家庭養生_home care_で3ヶ月程寝たり起きたりの生活でしたが、月が変わる度に父の体は衰弱していきました。そして、父は再入院して2ヶ月の闘病生活_The days of fight against illness_の後、この世を去りました。
享年68歳で、私が29歳の時でした。
今日のお話しは、ココまでです。
次回は、Part35:出会いと結婚_encounter_marriage_のお話しをしたいと思います。

2008年4月19日土曜日

俺の回想録 ≪Part33:思わぬ出来事≫_Reminiscences_unexpected accident_

前回の続きのお話しになります。
私は、建築設計事務所_building drawing office_を辞めて施工技術を勉強したいと思い、直ぐに建築施工会社_building execution company_に就職しました。
その会社は、社長の外に一級建築士の方、現場監督員2人、女性事務員の計4人と、提携している職人達で構成されていました。そこに、二級建築士の私が加わったのです。
私は、入社して3ヶ月程は社内で一級建築士の仕事を手伝い製図作業をしていたのですが、施工現場が忙しくなり監督員が足りなくなったので現場に出るようになったのです。
私が担当する事になった現場は、製茶工場_processed tea factory_の新築工事でした。
私は、以前土木工事現場の設計と管理は経験していたので、建築現場の監督も自分には出来ると安易に思ってしまったのです。
しかし、工事が始まると経験する全てが初めてに思えて、私の経験など微々たるものでした。
建築現場は、材料と職人の種類が多いので作業工程を間違えると大事に至るのです。
私は、入社してしばらくの間は電車で通勤していたのですが、現場を監督する事になり会社から自動車を与えられました。
朝、会社に寄ってから現場へ向かい、現場作業が終わるとそのまま実家に帰宅する生活でしたが、帰宅する車の運転中に1日の作業結果の把握と明日の作業の段取りを考えてしまい、気が付くと実家に着いていて、自分は「何処を走って帰宅したのだろう?」と運転していた時の記憶が無い日もありました。
ある日、それまで現場の外壁工事が遅れていたのですが、遅れを取り戻そうとして大勢の外壁材を貼る職人さんが現場に入って来たのです。
工事が遅れていた理由は、材料会社の現場担当者が個人で処理しようとして出来なくなり、急遽その会社が名古屋から職人を送り込んだのです。
職人達は、外壁を貼る時に使用する定規が足りないと言い、私は現場にいた大工さんに定規を作らせたのです。
私は、大工さんと一緒になって定規を作ろうと電動ノコギリを借りて作業をしていた時でした。
私が木材を切ろうとしていた時に、木材の端を押さえていた人がその木を動かしたのです。
私は、反射的に電動ノコギリを手前に引いてしまい、自分の右足の太股を切ってしまったのです。
普通の電動ノコギリは安全装置が付いているのですが、私が使った電動ノコギリは職人の方が安全装置を取り外して使っていた物だったのです。
私は、咄嗟に首に巻いていたタオルで傷口を押さえると、大工さんに車で近くの病院へ連れて行ってもらいました。
病院_hospital_に着くと、直ぐにベットに寝かせられ血で真っ赤になったズボンが脱がせられないのでハサミで切り裂かれたのです。
傷口は、幅6cm×長さ20cm程に腿肉が切り開いた形になっていました。
そして、その傷に看護婦さんが消毒液を流して、ピンセットの先に付けた脱脂綿で傷口を擦り綺麗にしたのですが、その痛さに涙が出ました。
その時、看護婦_nurse_さんから「男なら、我慢しないと」と言われたのですが、あまりの痛さで反論する言葉が出せませんでした。
その後、医師_doctor_の手で傷口は22針も縫ったのでした。
そして、そのまま病院に2週間入院する事になったのです。
傷の手当てが終わり入院する病室のベットで寝ようとした時、社長が慌てた姿で病室に入って来て「大工が慌てた電話で君が”足を切り落とした”と連絡して来たのでビックリしたよ!それで傷の方はどうなんだ?」と聞かれ、私が事故の様子と傷の程度を説明したらホット安心した様子で帰って行きました。
そして、2週間が過ぎ退院する時に医師_doctor_から「傷があと1ミリ深かったら神経が切れてしまい、貴方は歩行に支障をきたした障害者_handicapped person_になっていたかも知れない」と言われたのです。
退院して、しばらくの間は歩くと傷口は少し傷みましたが、医師_doctor_は”歩いたほうが良い”と言っていたので直ぐに仕事へ復帰しました。
工事現場は、他の社員が監督するようになり、私は社内で設計製図の仕事に戻ったのです。
しかし、小さな会社なので社長と一級建築士の方が設計関係の仕事をしていて、私が手伝う仕事は少なかったのです。
現場担当の者は、人手が足りなくて忙しく働いていたので、私は少しづつ居た堪れない気持ちになってしまい、会社を辞める決心をしたのです。
入社した時、社員の皆さんが良い人達で社内の雰囲気が私は大好きでした。不満は何も有りませんでした。
私は、会社の仕事状況に応えられない自分が満足以上の給料を頂いている事に、毎日心苦しくなっていったのです。
事故の後、2ヶ月が過ぎた頃に私は会社を辞めたのです。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part34:辞めた会社に再就職_Reemployment_のお話しをしたいと思います。

2008年4月17日木曜日

俺の回想録 ≪Part32:社会に再出発≫_Reminiscences_fresh start_society_

今日は、私が27歳の春(1977年)に専門学校の建築科を卒業して社会人として再出発した就職先の設計事務所_drawing office_でのお話しをさせて頂きます。
私が勤務した設計事務所は、個人の住宅の1室を事務所にした職場でした。
従業員は、男性が所長と24歳の「杉本君」と私の3人で、女性は所長の奥さんと娘さんの2人の計5人でした。
奥さんは、事務所の役員として実務はません。娘さんは、一般事務と車の運転手が仕事でした。建築の設計実務は、私達3人でおこなっていたのです。
この事務所は、私が就職活動_job hunting_していた時”求人”はしていなかったのですが、過去に学校の先輩が就職した事務所ということで、学校から私を紹介して頂いたのです。
そして、面接だけはして頂ける事になり面接試験を受けに来たのです。
私は、就職を早く決めなければと思い、その時は給料の話は無しのまま採用が決まったのですが、勤務して最初の給料を頂いた時に驚きました。私の初任給は、通勤費込みで4万円だったのです。
私は、通勤にバスと電車を利用していたので通勤費を引くとお小遣い程度の金額しか残らないのです。
以前、私が勤務していた会社で頂いていた給与までは望んではいませんでしたが、1/3の金額だったのです。
私も27歳になて、周囲の人達から結婚を薦める話が出始めていましたが、私は「修行の身だから結婚は考えない」と言い訳していました。
秋になって所長から、私と”同僚の杉本君”に建築士_authorized architect_の資格試験_qualifying examination_を受験するように言われたのです。
受験前に、杉本君は私に「今回も失敗したら、事務所を辞める覚悟だ」と言ってました。杉本君は、この試験に過去3回失敗していて、所長からは「君は、建築設計の仕事には向いていない」とも言われ、彼は”もう後が無い”と追い詰められた状態で試験を受けたのでした。
そして、彼は受験に失敗して事務所を辞めてしまったのです。
私は、試験に合格して晴れて2級建築士の資格を得たのですが、以前会社勤めを経験している私には所長の家族と職場の雰囲気に馴染めなかったので、杉本君が辞めて2ヶ月後に私も事務所を辞めました。
私は、専門学校_vocational school_を卒業して設計事務所に就職した年に”中学校の同級会”に出たのですが、クラスメートの男性6割は既婚者になっていました。また、職場では責任ある役職に着いて頑張っていたのです。
クラスメートには、私が26歳で学校に入学した事が理解できないという意見などもありました。
私も、本当にこれで良かったのか自分で自問自答をする事もありましたが、そのな時はいつも高校の先生の言葉を思い出しては納得していました。
それは、私が専門学校に受験願書を提出する前に、母校の高校へ卒業証明書を頂に行った時でした。
私は、担任の先生に会い卒業証明書の必要理由を話した時に、先生は私に「男は30歳前までは色々体験したり挑戦するのは良い事さ、しかし30歳を過ぎたら自分自身に責任を持たなければいけない」と言って応援してくれたのです。
私は、将来は建築設計事務所_authorized architect office_を開きたいと思っていたので設計事務所を辞めた後に、今度は建築の施工技術を学びたいと思い施工会社に就職しました。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、新しい職場で遭遇したPart33:思わぬ出来事_unexpected accident_のお話しをしたいと思います。

2008年4月16日水曜日

俺の回想録 ≪Part31:学生生活の終わり≫_Reminiscences_Student life_

いつも、私の回想録を読んでくれて有難う御座います。
今日は、前回に続き私が専門学校_vocational school_を卒業するまでの苦しかった学生生活を思い出しながらお話ししたいと思います。
私は、実家で1977年「正月」を迎えてから、東京に戻り、卒業までの残り3ヶ月の学生生活を始めました。
学校生活_Student life_は、授業と卒業設計の作成がを中心で就職活動_job hunting_もしなければなりません。
私の学校では、卒業設計作品の提出が決められた日時に1分でも遅れると、会場は閉じられて受理されません。そして、卒業ができなくて留年となるので生徒は卒業設計の作成に必死になるのです。
私達の学校では、1クラスの生徒数は入学時に120名ですが、途中で退学する学生もいて卒業時には90名前後になっていました。
3学期初めには、クラスで70%の生徒は就職先が決まっていましたが、私を含む30%は決まっていませんでした。
私は、卒業したら静岡に戻る予定でいたので、静岡からの求人を待っていました。しかし、オイルショックによる不景気が回復しておらず、静岡からの求人は無かったのです。
学校から、過去に卒業生が就職した会社へ問い合わせして頂き、私の就職先が決まったのは卒業式の1週間前でした。
その間、私は先生方から「静岡に戻らないで、本校で教師の補助職員として残らないか?」とか、女性教師の方からも「主人が経営する設計事務所へ紹介するから、そこで働いてみない?」などと言って頂いたのですが、何故か?私は静岡に戻る事しか考えていませんでした。
私の学生生活_student life_も、卒業設計の作成に追われ、日々苦しくなっていました。
卒業設計の途中審査に間に合わせるため、薬屋で”眠くならないアンプル”を購入して徹夜を続けたりしました。
その時、私は知ったのですがアンプルを飲んで一睡もしないで徹夜できるのは2晩が限界でした。3晩目には、紙に書いた文字が浮き上がり空中で舞っている様に見えてくるのです。
当然、頭脳も働かないで計算なども出来なくなるのです。
私の部屋は、昼間でも暗いので24時間照明を点けたままで、コタツも電気を入れたままの状態でした。その時の電気代は、12,000円の請求書が送られて来たのには驚きました。
卒業作品の提出日の1週間前も、この様な殆ど眠らない状態でした。
提出日の朝、徹夜のまま顔も洗わないで駅まで歩いた後、電車に乗って学校近くの駅で降り、駅からまた学校まで歩き、校内の提出会場で作品の提出審査を受けて受理された後も、また同じ道のりをアパートまで帰って来たと思うのですが、私には”提出審査を受けた記憶”が少しだけ残っているだけで、どのようにして学校まで行き、アパートまで帰って来たのか記憶に無いのです。
アパートの部屋に帰ってきたら、私は直ぐに眠ってしまった見たいです。
私が、物音で目を覚ました時は夕方で暗くなっていました。テレビを見たらニュースの日付が違うのに気付いて新聞の日付を確認したら、卒業作品提出の次の日になっていたのです。
そうです、私は学校から帰って直ぐに眠ってしまい、その日の夕方に目を覚ましたと思ったのですが、実際は24時間以上眠ってしまい目が覚めたのは、次の日の夕方だったのです。
その日、私は夕食を済ませて、早めの銭湯に行きゆっくりと入浴しました。
私達は、卒業作品の提出と同時に「卒業休み」に入り、2週間後の卒業式を最後に学校生活は終わったのです。
私は、卒業休みの時に学校から紹介された「静岡にある設計事務所」に就職が決まりました。
卒業式_graduation ceremony_が終えて、実家から兄が迎えに来たトラックに荷物を乗せて、私は静岡へ帰って来たのです。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part32:社会に再出発_fresh start _society_として再就職先でのお話しです。

2008年4月14日月曜日

俺の回想録 ≪Part30:冬の北国訪問≫_Reminiscences_Snowy district_

今日は、私が専門学校_vocational school_の卒業を控えた2年生の冬休みに秋田へ行った時のお話しをします。
私は、学校の秋のテスト休みに一人旅をして、旅先の能登で知り会った2人組の女性達に会いに行ったのです。
私は、学校が冬休みに入る前日、授業が終わりアパートに戻ると静岡の実家へ帰省する準備をしました。
その夜、11時頃に銭湯から部屋に戻ると、秋田の彼女達の事が思い出されたのです。
私が育った静岡では、冬でも殆ど雪は降りません。降っても冬の間に2~3日程で、積もる事は10年に1度有るか?無いか?です。
私は、彼女達が住む「雪国」_snowy district_である秋田へ行ってみたい。学校を卒業して静岡に帰れば2度と秋田へ行く事も無いだろう。また、私は小学4年生の時に家の近くでお母さんと二人で住んでいた友達が秋田へ引越して行った思い出があり、雪国”秋田”を見てみたいと強く思ったのです。
私は、急いで旅行準備をしてJR赤羽駅から23時半頃の京浜東北線に乗ったのです。
その時、私の服装は皮靴を履きスーツにコートを着た姿でした。しかし、この衣装で雪国_snowy district_に行った事が、後で失敗だった事に気付かされたのです。
私が乗った電車は、福島が終着駅でした。
駅のホームに下りて、駅員さんに秋田に行く電車の事を尋ねました。
そして、秋田行きの1番電車は6時半頃だったので、駅ホームの隅にある駅員さんが休憩する小屋で私も休ませて頂いたのです。
朝になり駅が薄明るくなった頃、私の乗った電車は秋田方面に向かって出発したのです。
電車を乗り継いで秋田の横手駅に着いたのは14時頃でした。
私は、突然の訪問に彼女達には迷惑ではないかと心配でしたが、病院に勤務するナースの彼女に電話で、横手駅に来ている事を連絡したのです。
彼女は、夜勤明けで家で休んでいたのですが、驚いて直ぐに駅に迎えに来てくれました。
私と彼女は再会を喜び会い、その後二人で横手市内を見て歩き、建築を学ぶ私に参考になればと彼女が勤務する病院も案内してくれました。
そして、市内の食堂に入って秋田名物の「きりたんぽ」を食べながら色々なお話しをしました。
その時、初めて知ったのですが裁判所に勤務するもう一人の彼女は1月前に結婚をして、今は大館市に住んでいて来られなかったのです。
私達は、食事が終わり店を出た時には辺は暗くなっていました。
そして、彼女の案内で市内のビジネスホテル_budget hotel_に向かい、私達はホテルのロビーで別れたのです。
私は、ホテルに向かって歩きながら”雪国の冬”と”静岡の冬”の違いに驚きました。
静岡の冬は、風が強く吹き寒いのですが、雪国の冬は風は弱いが冷たく、底冷えのする寒さと冷たさでした。
次の日、彼女は仕事で会えませんでした。
私は、1人で街外れにある横手城を観に行き、途中の凍った坂道で滑って転んでしまったのです。
その時、近くにいたお婆さんが心配して私に近づいて来て「怪我は無いかね?アンタさんは何処から来たの?」と聞かれたのです。
私が、「静岡」から来たと言ったら、お婆さんが「私も、静岡から横手へお嫁に来たんだよ」と言って、懐かしそうに若い時のお話しをしました。
また、「雪国_snowy district_では、冬の間みんな滑らないように長靴を履いているのに、皮靴では滑るから注意しないと危ないよ」と言われたのです。
私は、お婆さんと横手城で別れてから街中に戻り、駅から彼女へ「突然来てしまったお詫び、案内してくれたお礼と別れの挨拶」の電話を入れて、横手発16時頃の「東京行き」の電車に乗ったのです。
その時、二度と訪れる事は無いかもしれない土地を離れる事に、私は何故か”切ない気持ち”になったのですが、それは駅のホームで秋田出身の人気歌手の”哀愁を帯びた歌声”が流れていた為かも知れません。
そして、私が東京のアパートに着いた時には夜の10時を過ぎていました。
次の日、私は静岡の実家へ帰り、家族と一緒に正月を迎えたのです。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part31:学生生活の終わり _Student life_として、卒業までの苦しかった学生生活をお話します。

2008年4月12日土曜日

俺の回想録 ≪Part29:旅行記(旅の終)≫_Reminiscences_Traveler's diary_

今日も、前回の能登半島旅行の続きで福井から東京に戻るまでのお話しをします。
私は、金沢で深夜の映画館を出て駅に向かって歩いていると、あまりの寒さに途中で見つけたおにぎり屋さんに入り、おにぎりを食べながら暖を取り30分程過ごして、駅に向かいました。
私は、この旅行で知り会った秋田の女性達_traveling companion_との待ち会わせのため、時間には早すぎますが、他に行く所が無いので駅のベンチで眠ろうと考えたのです。
駅に着いたのは、朝の5時少し前でした。
私は、待合室のベンチに横になって眠りましたが腹痛で目が覚めてしまいました。
夜中におにぎりを食べたのが悪かったのか?、お腹を冷やしたのか?原因は分かりません。
時刻は6時頃で、その後は眠れ無いまま時間は過ぎました。
時刻が8時になり、彼女達が駅にやって来ました。そして、私を見つけて「お早う御座います。あれ、どうしたんですか?」と尋ねたので、私は腹痛である事を言うと、彼女達は薬を持っていて私にくれました。薬を飲んで、しばらくすると私の腹痛は消えました。
それから、私達3人は電車に乗って福井に向かったのです。
観光場所の「東尋坊」では遊覧船に乗り海上から自然が造った石の壁を見たり、「西山公園」では芝生に座って色々語り合いました。
私は、その時の会話で知ったのですが、彼女達は秋田県横手市の人でした。
彼女達の一人は、裁判所に勤務していて”卓球の選手”で、国体に県代表で出た事がある人だったのです。
もう一人の方は、病院に勤務しているナースで、その病院は有名な建築家が設計した病院でした。
私達は、その日の夕方6時頃に金沢駅に戻ってきました。
彼女達は、金沢に今夜も1泊して、明日秋田に帰るとの事でした。
私は、彼女達と駅前の食堂で食事を終えてから、お互いに旅の安全を願い別れたのです。
そして、私は金沢駅から東京に帰ろうと電車に乗ったのですが、途中の富山駅で下車をしました。
私が、富山で下車した理由は”子供の時に家に来る置き薬屋さんが富山から来ていた”ので、富山とはどのような所なのか?興味を抱いたのです。
私は、太平洋側に住んでおり、再び日本海側の街に来る事は無いかも知れないと思い、夜でしたが観て行こうと思いました。
富山駅前を真直ぐ歩いて行くと右手にお城が見えて、左の方に折れて行くと繁華街があり、私はどこか静岡市に似ていると思いました。
私は、駅前周辺を観て廻り、駅に戻った時には夜11時近くになっていました。
それから、富山駅を11時半頃の”東京行き”の夜行電車に乗り、東京に帰ったのです。
電車の席で眠っていた私が目を覚ました時には、電車は東京に着いていました。
そして、自分のアパートに戻ったのは朝6時半頃で秋なのに非常に寒い朝だった事を覚えています。
その日、夕方になって大家さんが私に電話が入っていると呼びに来たのです。
電話の相手は、彼女達で「今、横手へ無事に着きました。」と連絡してくれたのです。
そして、「また、今度は横手にも来てください。」と言われ、私も「静岡へも来てください。」と答えて、お互い旅での”お礼”を言った後、電話を切りました。
こうして、私のテスト休みの「一人旅」_traveling alone_は終わりました。
そして、また学生生活が始まったのです。
今日は、ココまでとします。
次回は、Part30:冬の北国訪問 _Snowy district_のお話しで、一人旅で知り会った彼女達が住む”秋田の横手”へ訪ねた時の事をお話しします。

2008年4月11日金曜日

俺の回想録 ≪Part28:旅行記(旅の友)≫_Reminiscences_Traveling companion_

今日は、前回の能登半島旅行記の続きをお話しします。
私が、能登半島を走る定期観光バス_periodical sightseeing bus_での旅の途中に寄った「巌門」と言う観光名所での事です。
私は、海岸の岩山に大きな穴の開いた「巌門」を見た後、バスの出発までにまだ時間があり休んでいると、近くの店でサザエ等の貝を焼いて売っているのを見つけました。美味しそうな匂いに惹かれた私は、それを買い、近くのベンチで食べていました。
すると、後の方から笑う声がしたのです。
私が振向くと2人組の女性達が微笑んで、バツが悪そうに頭を下げて「あの~、お口の周りに」と言って、私の口に指差したのです。
私は、慌てて口を拭うと手に醤油のタレが付きました。それが、キッカケで彼女達と会話が始まりました。
彼女達は、休暇を取って秋田から旅行_traveling_に来ていたのです。バスには途中から乗っていたそうですが、私は知りませんでした。
お互いに、自己紹介をしてから「どこまで行かれるんですか?」と彼女達に聞かれ、私は「金沢まで行き、市内観光をしてから東京に帰る」予定等を話しました。
そして、「巌門」をバスが出発してから輪島まで私と彼女達3人は、一緒に観光地を見て廻りました。
彼女達は、輪島に宿泊する予定だったので、そこで彼女達はバスを降りたのです。
別れる時、お互いにもう会う事は無いと思い「良い旅をしてください。」と言って、別れたのです。
私は、その後もバスで金沢市まで行きました。金沢に着いたのは午後の7時頃でネオンが輝く夜になっていました。
私は、駅前から歩いて10分位離れたビジネスホテル_budget hotel_に、その日は宿泊したのです。
次の朝、私は寝坊してしまい電話のモーニングコールで起こされた時には、ホテルのチェックアウトの時間を過ぎてしまい10時半になっていました。慌てて、食事も取らずにホテルを出て、市内定期観光バスの出発場所がある駅にいきました。
そして、定期観光バスの案内板を見ると午前中に出発の1日コースは過ぎてしまい、午後に出発する半日コースに参加する事にしたのです。
私は、出発までには時間が2時間程あったので、その間に食事をしたりして時間を潰し、出発30分前に観光バスの発着場に立っていると、駅の方から昨日別れた秋田の彼女達がバス発着場に向かって歩いて来たのです。
私と彼女達は、同時にお互いを見つけて驚き会いました。そして、彼女達も半日コースに参加して3人で観光をして廻ったのです。
その日、観光めぐりが終わりバスから降りた時に、彼女達から「明日、私達は福井の東尋坊 へ行く予定ですが、一緒に行きませんか?」と誘われたのです。
私は、旅費も残り少なくなり、その夜の電車で東京に帰る予定でいましたが、彼女達に強く望まれたので時刻表から旅費を計算して残金と照合したのです。その結果、今夜は旅館に泊まらなければ「東尋坊」へ行ける事が分かったのです。
私は、彼女達と明朝8時に駅で待ち合わせして、一緒に行く事を約束して別れました。
彼女達は、その夜は金沢市内に予約したホテルに泊まるとの事でした。
私は、彼女達と別れた後は一人で駅周辺の繁華街を見て回り、食事を済ませてから深夜でも見れる映画館を探して中に入りました。
館中では、オカルト映画「オーメン」を上映していましたが、殆ど見ないで私は眠りました。
私は、映画館_movie theater_の人に「お客さん、映画は終わりましたよ」と言って起こされて目が覚めたのです。
私は、もう朝なのかと思い映画館を出ると、外は暗く星が出ていました。時計を見たら、朝の4時でした。秋でしたが、外が非常に寒かった事を憶えています。
今日は、ココまでとします。
この続きは、次回Part29: 旅行記(旅の終)_Traveling_ としてお話しします。

2008年4月10日木曜日

俺の回想録 ≪Part27:旅行記(能登)≫_Reminiscences_Traveling_

今日の話は、私が一人旅_Traveling_に出て4日目に新潟県の佐渡からフェリーに乗って能登半島の先端「珠洲市」に着いたところからお話しをします。
佐渡島と珠洲市をを結ぶフェリーに4時間程揺られ、私は午後5時半頃に珠洲港に着きました。
港は、少し薄暗くなっており、フェリーから降りたのは30人程でした。
旅行客は、私を含めて6~7人程で、その他は仕事関係の人達でした。
フェリーが着いた岸壁には、20人程の人達が迎えに出ていて、その中の1人が手に旗を持って私に近づいて来たのです。
そして、私に「今夜の宿泊場所はお決まりですか?」と言って来たのです。
私は、フェリーを降りたらバスで金沢へ向かって進む予定でいたので、「これから金沢へ行きたいので、バス停はどちらですか?」と聞いたら、その人は「今日は、もうバスは無いですよ。今夜は、うちの宿に泊まって、明日の朝1番の定期観光バスに乗って行くと良いですよ」と、旅館の番頭さん風の人に言われました。
私は、その旅館に泊まる事に決め、番頭さんに案内されて港に近い旅館に入ったのです。
私は、安い部屋を希望したので通された部屋は2階の6帖間で、コタツが中央に置いてあるだけのテレビも無い部屋でした。
部屋に入って、しばらくすると先ほどの番頭さんがお茶を運んで来てくれて「食事の前に、お風呂をどうぞ」とすすめてくれました。
私が、風呂から部屋に戻ると、直ぐに番頭さんが食事を運んでくれて「貴方には、ほかのお客とは別で、特別に松茸御飯を持って来たから食べてヨ」と言いながら給仕をしていると、階下から女性の声で「あんた、何してんのよ~」と呼ぶ声がしたのです。
番頭さんは、「この松茸御飯は、女母には内緒だよ」と言って部屋を出て行きました。
私は、その時初めて「あの人は、番頭さんでは無く旅館のご主人なんだ」と知ったのです。
番頭さんみたいなご主人は、少し女性言葉のような喋り口で、気弱な、人の良さそうな人でした。
食事も終わって、私が1人で部屋にいると、ご主人が「テレビが無くて悪いね。若い貴方には、こっちの方が良いかも知れない。」と言って、沢山のポルノ雑誌を持って来たのです。
ご主人は、話の好きな人で色々な地元の話しをしてくれて、私が寝る時間まで私の部屋にいたのです。
次の朝、ご主人が私のバッグを持って、旅館から歩いて5分ほどの所にある「定期観光バス」の停留場まで案内してくれました。
そして、切符まで購入して私にくれたのです。
別れ際に「学校卒業したら、今度はお金を沢山持って、もう一度遊びに来なさいよ、夜の面白い所に案内してあげるから」と言って、バスが出発してもずっと手を振って見送ってくれました。
私は、「いつか、もう1度珠洲に遊びに来よう」と、その時は思ったのですが、私は太平洋側に住んでいるので、あれから再び珠洲を訪ねる事はありませんでした。
私が乗った定期観光バスは、能登半島の外海に沿って走りました。
バスの乗客の中には、観光客以外に大きな荷物を背負って行商に行く地元のお婆さん達もいました。
この、お婆さん達の方言による会話は、何を喋っているのか私には理解できませんでした。
バスは、観光場所_sightseeing spot_を観ながら輪島・金沢方面へ向かって進んで行きました。
私は、途中の「巌門」と言う観光場所で、私と同じ観光していた秋田の女性2人組みと知り会ったのです。
今日のお話しは、ココまでとします。
この続きは、次回のブログ、Part28: 旅行記(旅の友)_traveling_ としてお話しします。

2008年4月9日水曜日

俺の回想録 ≪Part26:旅行記(佐渡)≫_Reminiscences_Traveling alone_

今日は、私が一人旅_traveling alone_に出て2日目に新潟県の佐渡に着いてからのお話しをします。
小型飛行機が無事に佐渡に着陸して、ホットした私が飛行場に降り立ったのは午後の4時頃でした。
その日は、飛行所の周辺を散策しながら泊まる宿を探して終わりました。
私が見つけた宿は、私が想像していた佐渡の雰囲気とは異なる、洋風的な外観で少し値が高そうなところでした。
飛行場周辺では、この旅館しか見つけることが出来なかったのです。私は、その旅館に宿泊しました。
次の朝、私は明るい洗面所で顔を洗っていて、鏡に写った自分の顔を見て驚きました。
私の顔は痩せて、目の縁がクマで黒ずんで、まるで病人のようでした。
私は、2年生になって毎日が部屋で課題に追われる生活をしていて、睡眠時間が平均4時間ほどでした。
学校に入学する前、社会人の時には体重が65kg程でしたが、その時は59kgになっていたのです。
私は、学校生活で知ったのですが、睡眠時間が4時間とれれば次の日に頭も働き、授業にはそんなに支障は無いのです。
しかし、睡眠時間が3時間程度だと次の日に頭は働きません、昼間ずっと起きていられ無いのです。
昔、ナポレオンは”人間は4時間眠れば十分である”と言ったそうですが、人間が厳しい環境下で暮らす場合の睡眠時間は、最低でも4時間は必要だと思うのです。
話を元に戻します。
私は、病人の様な自分の顔に”恥ずかしさ”を感じましたが「旅の恥は、掻き捨て」の気持ちで、そのまま旅を続けました。
旅行中に、私の顔を見て驚いていた人もいたかも知れません。
私は、宿を出て佐渡島内を巡る定期観光バスに乗り、島内で最も高い山の「金北山」や「佐渡金山」 「真野御陵」などを見て廻ったのです。
そして、その夜も同じ旅館に泊まったのです。
次の日、私は佐渡から能登半島へ行こうと決めて、フェリーの発着場のある佐渡島の南端である「小木」へ向かいました。そして、小木にバスで着いた時は午後1時頃でした。
フェリーの出発まで1時間ほどあったのですが、近くの海で”絣の着物に手ぬぐいを被った女性”がタライ船を操作している姿を見て、時間を潰したのです。
出発時間になり、フェリーに乗船した私は直ぐに甲板に出ると、フェリーが動き出しました。
同時に、佐渡おけさの音楽が港に流れたのです。
私は、”佐渡おけさ”の音楽を聴いた時、不思議な魅力のある曲だと思いました。
この曲を速いテンポで聞くと、明るく、楽しい感じに聞こえるのですが、スローなテンポで聞くと、もの悲しく、切ない、ような感じに聞こえるのです。
フェリーが港を離れると、この”佐渡おけさ”の曲がスローテンポで優しく流れたのです。
一人旅の私は、それを聞いて”何故か?もの悲しい気持ち”になって佐渡を離れたのです。
今日のお話しは、ココまでとします。
次回のブログは、Part27: 旅行記(能登)_Traveling alone_ として続きのお話しです。

2008年4月8日火曜日

俺の回想録 ≪Part25:学生一人旅≫_Reminiscences_Student_Traveling alone_

今日は、私が27歳で専門学校生_Student_だった時に一人で旅行_traveling alone_したお話しをします。
私の学校では、中間と期末にテスト週間があり、それぞれのテスト週間が終わると1週間テスト休みがありました。
2年生の2学期の期末テストが終了した時、明日からの”テスト休み”は何をして過ごそうかと考えました。
学校は、あと3学期の卒業設計の課題が終われば卒業となります。
私は、思い出に”一人で旅”_traveling alone_をしようと思いました。
27歳でも学生ですから、学割が使えるのです。これを生かして、今まで行った事が無い”日本海の旅”に出たのです。
私は、時刻表を片手にJR京浜東北線に飛び乗り、最初の地「新潟」に午後3時半位に着きました。
その日、私はただ当ても無く一人で新潟市内を見て歩きました。万代橋が架かる信濃川の岸近くにあったレインボータワーに昇り、また古町などを見て廻ったのです。
私は、暗くなって市内にある古い小さな和風旅館を見つけ「ココなら安いだろう」と思い中に入りました。 玄関に出て来たのは50歳位の女将さんで、私が「学生_student_なので学割で安く泊めてくれませんか?」とお願いしたら、少し疑う様子でしたが直ぐにOKしてくれました。
次の日、私は「佐渡」へ渡ろうと考え、旅館を出てフェリーの発着場のある信濃川河口の港へ行きました。次のフェリーの出発まで、30分以上の待ち時間があり、私は時間を持て余していました。
私は、持っていた時刻表を見て「新潟には飛行場があり、佐渡へは飛行機で渡れる」ことを知ったのです。
私は、27歳まで飛行機に乗った事は無かったので「飛行機で渡ろう」と決めました。
新潟空港は、新潟の街中からバスで1時間半程走った郊外の「松浜町」という所でした。バス停で降りると、広い松林があり、その林の中を1本の道路が飛行場まで延びていました。
私は、15分程歩いて飛行場のロビーに着きました。そして、切符を求めにサービスカウンターに行き、料金を知って驚きました。
私の持っていた時刻表は、少し古くて記載された料金が値上がっていたのです。
私は、戻ってフェリーにしようか迷いました。しかし、また2時間近くかけて戻る気にはなれませんでした。
結局、私は初めて飛行機に乗って佐渡へ渡りました。
私の乗った飛行機は、操縦士と乗客だけで10人乗位の小型飛行機でした。飛行機は、私を乗せて左右2つプロペラがもの凄い爆音と振動を伴って空に舞い上がり、20分後には佐渡の小さな空港に着陸したのです。
飛行機は、海上を飛んで佐渡に行くため、初めての私は「もし、墜落したら?」と考えたりして怖かったです。
今日のお話しは、ココまでとします。
次回のブログは、Part26: 学生一人旅(2)_Traveling alone_(2) として続きのお話しです。

2008年4月7日月曜日

俺の回想録 ≪Part24:母からの手紙≫_Reminiscences_Letter_mother_

今日は、前回に続く「家族愛」の話になりますが、私の学生生活も2年目に入り卒業の年になります。
同じアパートの住人で、私と友達になった「遠山君」は卒業して故郷に帰り、「長田さん」は別のアパートへ引越してしまい、学校以外では常に私1人の生活になりました。
しかし、私には孤独感はありませんでした。と言うよりも、孤独を感じている余裕が無かったのです。
学校の授業が終わると、直ぐに自分のアパートへ帰り部屋で課題の処理に追われ、日曜日も無い毎日だったのです。
そんな時でした、私が学校から帰ると郵便受けに1通の封書が入っていたのです。差出人には、母の名前が書かれていたのです。_Letter_mother_
私は、その時27歳まで身内から手紙をもらった事も、出した事も無かったのです。
手紙の内容は、「元気でやっているか?」「ちゃんと御飯を食べているか?」などに実家の近況報告が加わり便箋3枚に書かれていました。
私は、手紙を読み終えた時に”親の存在を再認識”させられたような、この年齢になっても”親に心配させている自分を許せない”そんな、やりきれない気持ちになったのです。
私は、自分の書いた字がへたくそで嫌いでしたから、手紙だと母が字を見てガッカリするのではないかと思い、返事は電話にしました。
現在まで、身内からの手紙は後にも先にも”この時だけ”になっています。今は、「一度位は書いてみても良かったのではないか」と思っています。
私が、社会人から学生になって思った事、感じた事があります。
それは、私の勝手な解釈かも知れませんが”学生は、ごく恵まれた状態の者である”と思ったのです。
アルバイトをしながらの学生は別ですが、一般に”学生は働かないで、お金を払って勉強している”のですが、同じ年齢だと”社会人で働いてお金を稼いでいる”のです。
この差は出費(マイナス)と収入(プラス)で倍の違いがあるのです。
また、私は全日制の学生でしたが学校には夜間部もあり、私達昼間の学生が下校していると校舎に明かりが灯り夜間部の生徒達が登校して来るのです。
私が、下校の遅い日に校舎の明かりの中で勉強している学生の姿を見た時に思ったのですが世の中には、「昼間働いて、夜は一生懸命に勉強している人達が大勢いる」、この人達のように日々努力している人としない人では日々の差は小さくても、時間を経た将来においては大差が付いてしまうのだろうと思いました。
そして、私自身はそんなに努力しては来なかったので「何か恐ろしい」ような気持ちになったのです。
人は、日々の生活にただ押し流されているのではなく、知らないだけで、多くの人は日々努力して生きているいんですね。
人間は、常に前向きな気持ちで生きる事が大切なんで、私も少しでもそう生きたいと思います。
今日のお話しは、ココまでとします。
次回のブログは、Part25: 学生一人旅_traveling alone_ のお話しです。

2008年4月6日日曜日

俺の回想録 ≪Part23:離れて分かる家族愛≫_Reminiscences_Family_Love_

今日は、私が東京で学生生活をしていて家族と離れていた時の私と家族_Family_Love_のお話しをします。
私が、専門学校に入学して半年位過ぎた頃、何の連絡も無く突然、父が私のアパートへ尋ねて来たのです。
私は、学校からアパートに帰って来ると父がアパートの門の所で、手に風呂敷包みを下げて立っていたのです。
私と父は、部屋に入りお茶を飲みました。父は部屋を見廻しながら「生活していて不便な事は無いか?」と言いました。そして、持っていた風呂敷包みを解いて、中から出てきたお米を私によこしたのです。
私は、「何もこんなに重い物を持って来なくても、米ならこちらでも買えるのに」と言ったら、「うん、そうだけどな」とだけ言って、少し寂しげに微笑んだのを今でも忘れません。
父は、昔からまじめ一筋で、少し不器用な人でしたから、父は私に何かを持って行ってやりたい気持ちから、商売の「お米」しか思い浮かば無かったのだと思います。
最初の晩、、父は私を連れてアパートから少し離れた繁華街で食事をしました。私は、食事をしながら、父と2人だけで家以外の所で食事をしたのは、小学校3年生の時に、一度だけ静岡の街に連れて行ってくれた時以来であると気付いたのです。
その為か?私は、少し照れくさい様な気持ちになりました。
その夜、私と父は四畳半に並んで寝たのです。
次の日、私はいつもの様に「駅の立ち喰いそば」を食べ学校に行き、授業が終わりアパートに帰ってみると、父が部屋を綺麗に整頓してくれてあったのです。そして、父は「おまえが元気でやってのが分かったから、明日帰るよ」と言ったのです。
その夜、私は父を誘い上野にある「鈴本演芸場」へ落語を聴きに行きました。私は、会いに来てくれた父と楽しい思い出を作りたかったのです。
落語を聴いてアパートに帰り、その後すぐに父と銭湯に行きました。父と私は、お互いの背中を流しあった後、夜空の下を2人並んでアパートに帰って寝たのです。
次の日、私が学校へ行く時間に合わせて父は帰りました。駅で別れる時に、父は私に「私が、東京で生活を始めた時に似ていた」と言い、「これを取っておけ」と言って1万円札を1枚、私に渡してくれたのです。
私は、「キャッシュカードを持っているから、いいよ」と言ったら、私のポケットの中へそのまま入れたのでした。そして、父は帰って行きました。
後で、私が帰省した時に母から聞いたのですが、父は母にも兄達にも黙って、私の所に行ったとの事でした。_Family_Love_
そんな父も、私が30歳の時「癌」で67歳の生涯を終えたのです。
今でも、父が私の所に突然会いに行った理由は、残った家族には解らないのです。
私は、父が末っ子である私の事が心配になり、また自分の若い時の事を私にダブらして見たかったのではないかと思っています。
今日のお話しは、ココまでとします。
次回のブログは、Part24: 母からの手紙_Letter_mother_ のお話しです。

2008年4月5日土曜日

俺の回想録 ≪Part22:東京での学生生活≫_Reminiscences_Vocational school_Student life_

私は、26歳の春に東京の専門学校_Vocational school_の建築設計科に 入学しました。
入学する前は、この年齢で入学するのは自分だけかと思っていたのですが、入学してみると私のクラスには24~27歳の人が6名いました。その他の人たちは高校からの現役生でした。
私達6名の中には、若い人たちとは馴染めない方もいましたが、私の場合には入学した時にクラス委員長に任命されて、クラスのみんなの前で紹介された事で、クラスの仲間全員と直ぐに馴染む事が出来たのです。
もし、あの時委員長に任命され無かったら、きっと私も他の5人と同じで若いクラス仲間と直ぐには馴染む事ができなかったかも知れません。
学校生活_Student life_は、毎日が課題に追われ忙しい2年間でしたが、今日までの私の人生の中で最も夢中になり、自分が熱くなって生活していた時ではなかったかと思われます。
また、私生活では住んでいたアパートに同じ学校の測量科に私と同じに入学した「遠山君」という23歳の男性と、同じ学校を卒業した社会人の「長田さん」という24歳女性に出会いました。
私達3人は、学校が共通する事から直ぐに友達になりました。
夜、銭湯に行くにも3人一緒でした。また、休日も3人で行動を共にしていました。
私が住んでいた所は、東京でも都心の外れでしたが、夜遅くまで街に音楽が流れて人通りも多く、田舎から出てきた私には「毎日がお祭りの様だ」と思いました。
アパートには、外に40歳位の男性と大学生も住んでいました。
私が入居して6ヶ月程が過ぎた秋、40歳位の男性が長田さんにストカー行為のトラブルを起こし、彼女は都内の別なアパートに引越したのです。
私と遠山君も、長田さんの引越しを手伝い、引越し屋さんのトラックの荷台に3人並んで座り都内を走った事が、今でも私の思い出になっています。
その後、私は学校の課題で毎日が忙しくなってしまい、長田さんとはあまり会えなくなったのですが、遠山君は長田さんのところに会いに行ってました。
ある日、遠山君が長田さんの所から帰って来て、直ぐに私の部屋に来て「今日、僕が長田さんの所に行ったら、長田さんが”今日も青島さんは一緒ではないの”と言ってたよ」と言って、彼は長田さんの様子を報告に来たのです。
そして、彼は「長田さんは、青島さんに好意を持っているみたいだよ」と言ったのです。
私は、その事を聞いて3人で銭湯に行った夜の事を思い出したのです。
それは、私と長田さんの2人が偶然先に銭湯から上がって、外で遠山君の出て来るのを待っている時でした、2人の間に沈黙でしたが、何か感じるものがあったのです。
私は時々、「彼女なら良い奥さんになるだろうな~」と思いました。しかし、私には恋愛感情とは違う友情の様な思いでした。
結局、2人の関係はそれ以上にはなりませんでした。
1年が過ぎ、遠山君は測量科を卒業して故郷に帰ったのです。私は、遠山君と一緒に彼の実家まで送って行きました。
長田さんは、仕事で私達とは同行でき無かったので、遠山君は残念そうでした。
もしかすると、遠山君は長田さんに好意を持っていたのかも知れません。
こうして、私の側から遠山君が去り、そして長田さんも去って行き、私は一人になりました。
しかし、私は2年生になって孤独に浸る余裕はありませんでした。
学校での授業がより忙しくなったのです。_vocational school_Student life_
今日のお話しは、ココまでにします。
次回のブログは、Part23: 離れて分かる家族愛_Family_love_ のお話しです。

2008年4月4日金曜日

俺の回想録 ≪Part21:新たな出発≫_Reminiscences_New departure_

前回、このブログでお話した続きになりますが、私は彼女を失ってから自分が親元で暮らす生活に「身の周りの世話は親がしてくれる、今の生活でいて良いのか?」と考え、「何か自分で自分を変えたい」と思い、親元を離れ自分でアパート生活を始める事にしたのです。_New departure_
その頃には、会社の仕事に責任を持たされる立場になっていて、自分の気持ちを紛わせる為にも仕事に没頭しました。
そして、2年が過ぎ時(1976年)会社を退職したのです。
当時、オイルショックがあり日本経済が急激に不況が襲ったのです。私の会社も不景気となり、社員の待遇も悪化していました。
私は、それまでの会社生活で忘れかけていた「もう一度、勉強を仕直すために上の学校(大学)へ行きたい」という思いになったのです。
しかし、私の経済的余裕だと「受験勉強1年」、「大学生活4年間」は不可能でした。それで私は、「今までの土木設計の仕事で得た知識と技術も生かせる、新しい分野の建築設計を学ぼう」と考えて、専門学校に入学する事に決めたのです。
会社に在職中の時でしたが受験して「合格」したので、家族に退職と入学の報告のため実家に帰ったのですが、兄達は「26歳にもなって何を考えているだ?」と言い、母は「今の会社でもう少し辛抱したら」と反対しました。
ただ、父だけは「男が行くと決めたなら行けば良いさ」と言ってくれたのです。
この父の一言で、私の入学が認められたのです。
これは、私が入学した後に母から聞いたのですが「あんたは、お父さんと同じだね・・・」「お父さんは、尋常小学校(義務教育)しか出ていなくて色々の仕事したけど、ある日、一念発起して東京の工業専門学校の機械科に入って勉強して飛行機を作る技師になったんだよ」「だから、お父さんは自分とあんたが似ているから反対しなかったんだよ」と言いました。
私は、入学する事に決まり会社への「退職届け」をアパートで夜中まで、書いては気に入らなくて何度も書き直しました。
そして、次の日に上司へ「退職願い」を提出したのです。
会社の同僚の中には驚く人、信じ無い人などもいましたが、みんなで盛大に送別会を開いてくれました。
私は、入学の準備を考慮して2月末日で退職して、4月始めの入学へ向けて準備をしました。
それまで借りていた静岡のアパートを引き払い、東京の北区に新たに借りたアパートへ引越すのです。 私の引越しには、兄(次男)が協力してくれて実家のトラックに荷物を積んで、私と二人で運んでくれました。
東京で借りた私のアパートは、築20年は過ぎているであろう木造の4帖半で半間の流しと半間の押入れが付いて家賃は1万円でした。隣もアパートで、40cm程しか離れておらず昼間でも薄暗い部屋でした。兄も部屋を見て驚いていました。
こうして、私の新たな生活_New departure_が東京で始まったのです。
今日のお話しは、ココまでにします。
次回のブログは、Part22: 東京での学生生活_Student life_ のお話しです。

2008年4月2日水曜日

俺の回想録 ≪Part20:恋の破局≫_Reminiscences_Collapse_love_

今日は、私が長く交際してきた人との恋_love_が破局_collapse_したお話しをしたいと思います。
私が、社会人になってバスで通勤していて知り会った友達のグループの中に美容師の女性がいました。
また、私にはグループとは別に高校生の時、いや正確にはそれ以前から交際していた彼女がいたのですが、グループの美容師の女性とも交際していたのです。美容師の女性との交際が4年程経ったある日、中学時代からの友達である松野君から私に電話が来たのです。
彼の義姉さんは、日本舞踊の師匠で私の彼女に踊りを教えていたのです。
彼は、電話で「杉山さんが、町のお祭り準備で地元の青年団に踊りを教えていて、青年団の一人に結婚を申し込まれて、彼女は今悩んでいるらしい」と言って来たのです。
その時、私と彼女は24歳でした。
私は、彼から連絡を受けた時に、すぐに彼女へ連絡を入れて彼女と話し会えば良かったのですが何故か出来ませんでした。
その時、彼女との間に「美容師の女性」と私の関係が誤解されていたのです。
私は、彼女が最後には私を選ぶだろうと過信していました。
それから、3ヶ月程してまた松野君から連絡があり「彼女が青年団の人との結婚を決めたようだけど、君は彼女と話合ったのか?」と言われました。
私は、信じられませんでした。「信じられない、どうしたら良いのだろう、困った」と思いました。
当時、私達の年齢24才では女性は結婚適齢期と言われていました。
私は、直ぐに彼女に「結婚を止めろ」と言い、「私のために何年待ってくれ」とは言えなかったのです。
その時は、私の2人の兄達も独身で、この後何年待ってもらえば結婚できるのか考えてしまったのです。
私は、「どうしたら良いのか」と2週間程悩みました。その間、毎日彼女の事で頭の中がイッパイでした。そして、私には彼女が必要で、その他の女性は考えられない事に気付いたのです。
そして、直ぐにでも彼女の結婚を止めなければと思い、会社の帰宅途中の電話ボックスから彼女の家に電話をしたのです。
電話には、彼女のお父さんで私の幼稚園時代の園長さんが出て「京子は、先週の日曜日に結婚して新婚旅行に行ってます」と言われたのです。
私は、一瞬頭の中が真っ白になり、後の言葉が言えないまま受話器を置いていました。
そして、「あ~、全てが消えてしまった。自分にとって最も大切な人を失ってしまった」と思いました。
その後に、私の体は虚脱感に襲われました。_collapse_love_
この結果は、自分で招いてしまった事かも知れませんが、なぜ彼女は私に何の連絡も相談も無く、一人で結論を出して結婚してしまったのか?私は、彼女を恨みました。
そして、どうにか私が彼女への諦めが付までに1年程かかりました。
そして今は、時々あの頃の事を思い出すと「なんで、自分はもっと素直に行動できなかったのか?」と後悔をしているのです。
時々、私が思い出すのには理由があるんです。
それは、彼女の嫁ぎ先が私の実家から500m程しか離れていないのです。
今でも、時々私が実家へ帰る途中で偶然に彼女を見かける場合があるのです。お互い道で会うと言葉を交わす事はありませんが、目と目で挨拶をする程度です。
私は、できるものなら今の彼女が私に対して、どのような気持ちでるのか知りたいと思いますが、それは無理だろうと思っています。
結局、お互いの気持ちは言葉で交わす事は無く、分からないまま年老いて死んで行くのだろうと思っています。
今、このブログを書いている時でも、少し切ない気持ちになっています。
今日のお話しは、ココまでにします。
次回のブログは、Part21: 新たな出発_New departure_ のお話しです。

2008年4月1日火曜日

俺の回想録 ≪Part19:新米社員の青春≫_Reminiscences_New face_Youth_

この私のブログは昨日、一昨日とお休みしてしまいました。それは、娘が今年4月に県外の大学に入るので、その住居の準備で家を留守にしていたからです。 そして今日、家に帰って来ました。
これからも、頑張ってブログを書き続けて行きたいと思っていますので、よろしくお願いします。
さて今日のお話しは、私が社会人_new face_youth_に成り立ての頃、私(若者達)の生活の様子をお話しします。
私が、社会人1年生になった1968年頃は、一般に乗用車の数も少なく、私はバスと電車を使い通勤していました。バスの乗客も多い時代でした。
私の実家に近い所を通るバス路線は最終が20時30分だったので、私は仕事がら毎日この最終バスで帰っていました。
毎日、同じバスに乗るものですから、いつも私と同じバスに乗っている人達とも自然と挨拶するようになり、同年輩の人とは友達になり、その友達の友達とも知り合いになり、友達の輪が広がって大勢の友達が出来ました。
当時は、電車の駅の近くには必ず「喫茶店」があり、コーヒーを飲みながら読書したり、友達と会話したり、待ち合わせの場所に利用していました。
一般の高卒者の初任給が2万円弱(18,000円位)で、コーヒー1杯が80~100円でした。私達若者は、休日には喫茶店で友達と待ち合わせて、バスと電車に乗って繁華街に出て映画を見たり、また当時は若者からお年寄りまで男女の区別無く大人気だったボーリングなどをして楽しく過ごしていました。 私は、ボーリングが特に好きで夢中になりました。昼間ボーリング場でプレイするには1~2時間待ちが普通で、料金は1ゲーム250円程でした。
しかし、私は毎週休日には、家から朝一番の始発バスに乗って近くの街のボーリング場に朝8時間でに着き「早朝ボール」をしていました。
「早朝ボール」は、1ゲーム150円と格安でプレイが出来て待ち時間も殆ど無いのです。
その甲斐あってか?、会社のボーリング大会ではいつも入賞できました。
当時、私には通勤バスで知り合った友達のグループが出来ました。
グループは男性5人に女性4人で、クリスマスやお正月には皆で集まって遊んだりしていました。
私が、グループでの楽しかった思い出として、今でも残っているのは1970年3月から9月までの半年間開催され、会期中に6421万8770人もの人々が訪れた国際博覧会(大阪万博)へ1泊2日でグループのみんなと行った事です。
私達のグループの中では、カップルが出来て結婚した人もいます。
私は、当時グループとは別に交際していた女性(以前、このブログで紹介)がいました。
私が卒業した高校は、男子校のため彼女以外の女性と知り合った事が無かったのですが、グループが出来てからは、彼女以外にグループの中の女性と親しくなりました。
そのため、彼女と付き合う時間が少なくなっていき誤解が生じたりして、私と彼女の間に少しずつ気持ちにズレが生じて、それが破局へと進んで行ったのです。
その時は、私と彼女との仲で誤解が生じても、時間が来れば誤解は解けると軽く考えていました。
今に思えば、その時彼女もグループの仲間入れて、一緒に楽しく付き会っていれば良かったと後悔しています。私は、彼女だけはグループの仲間とは別の場所に、自分だけのものとして置きたかったのかも知れません。
そして、私が学んだことは「人間は誤解が生じた場合、時間は誤解を解いてはくれない。誤解された人は、その誤解を解くための努力はしなければいけない」と思います。
今日は、ココまでとします。
次回のブログは、Part20: 恋の破局_love_Collapse_のお話しをします。

2008年3月29日土曜日

俺の回想録 ≪Part18:社会人1年生≫_Reminiscences_Member_Society_

私は、1968年にの春に工業高校を卒業して18歳で社会人_member _society_になりました。
入社した会社は、創立2年目で設計、測量部、地質調査等の建設関係のコンサルタント業務の会社でした。
私と同じ高校からの田中君は、面接試験において配属部所は「設計部」を希望していました。
しかし、私達は、測量部に配属され、晴れた日は毎日外業で現場測量を行い、雨の日は内業で現場測量結果のまとめ及び製図作業でした。
私達は、進入社員のため毎日のように現場でテープ(巻尺)読みの係りで、現場ではただの人促に過ぎのです。
私は、「これから、社会人とし一生この仕事をしていくのかな~」と考えては、空しい気持ちになり、仕事に魅力を感じられませんでした。さりとて、転職するとなると高校で学んだ事が無駄になると思い、毎日割り切れない気持ちで過ごしていたのです。
親に話しても、「まだ、入社して半年ではないか、仕事を憶えて上司から仕事を任されるようになれば仕事が面白くなるから」と言われましたが、私には理解できませんでした。
そんな時でした、会社が大きく飛躍できるか、どうか?の社運を懸けた大仕事を会社が受注したのです。そして、社内でプロジェクトチームが組織され、会社の全部所から人選されたのです。そして、測量部からは私が任命されたのです。
プロジェクトチームは○○・・設計部としてスタートしました。
私は、希望する「設計部」に移動できてからは、充実した毎日を送れるようになりました。
設計部員になった時、外部から役所を途中退職されて入社して来た「松本さん」と言う29歳の方が、私達チームの課長になったのです。
私と松本さんは、家へ帰る方向が同じだったので一緒の電車で通勤するようになりました。
ある時、「青島君、私達のような技術仕事は、より高度な知識と学力が要求されるから、これからは大学卒の時代になる」と松本さんが言いました。
私も、仕事を通じて高校で学んだ以上の学識を身に付けたいと思う時があり、もう一度勉強して大学へ進もうかと考えた事もありました。
しかし、日々仕事が面白くなり、自分の人生はこのままでも良いと満足する気持ちになったりもして、進学の決断が出来無いまま年月が過ぎていきました。
私は、設計部員になってある事に気付きました。それは、私だけかも知れませんが「自分の仕事が面白くて充実している時は、遊びもより楽しく感じられる」しかし、「仕事が面白くなくて充実して無い時は、遊びも楽しく無い」と思えるのです。
以上が、私が社会人1年生になり自分の「仕事と将来」に疑問と迷いを抱き、そして方向が与えられ少しずつ社会人_Member_Society_として歩み始めた頃の話です。
今日は、ココまでとします。
次回のブログは、Part19: 新米社員の青春_newface_Youth_ のお話しです。

2008年3月28日金曜日

俺の回想録 ≪Part17:高校卒業まで≫_Reminiscences_High school_Graduation_

私の高校生活は、専門高校_senior high school_のため授業が一般科目と専門科目があり、専門科目の実習と課題に忙しい毎日でした。
それでも、3年生になると私はバス通学にしたので楽しい事もありました。
それは、以前このブログでも紹介しました初恋の人である杉山京子さんが、私のバス通学に合わせて通学途中のJR駅から電車通学するようにしたのです。
私が、自転車通学の時は月に一度会える程度でしたが、バスになってからは毎日朝は一緒で、帰りもお互いどちらかが駅で待ち、一緒のバスで帰りました。時には、校則では禁止されていましたが二人で駅前の喫茶店に入った事もありました。
私が高校2年の秋、まだ自転車通学をしていたのですが、私は高校でクラブ活動は写真部に所属していて「文化祭の準備」をしていたある日、私達のクラブ室に彼女が来たのです。
私は、彼女から何も聞いて無かったので驚きました。
私の学校の写真部では、文化祭に近隣の高校の写真部の作品を募集していたのです。
私は、彼女から高校のクラブ活動は何部なのか聞いて無かったので驚きました。偶然にも、彼女も私と同じ女子高の写真部だったのです。そして、部員の作品を届けに来てくれたのでした。
その時、私も彼女も周囲の部員の前ではお互い知らない同士を装い、彼女は作品を置いて帰りました。
彼女が帰った後に、部員達の中には彼女のうわさをして騒ぐ者もいて、部長は文化祭の招待状を彼女へ出そうと言い出した事を今でも覚えています。
私が、彼女を送って学校の玄関ロビーで別れたのですが、彼女も同じ写真部の偶然に驚いていました。
文化祭の当日、彼女は私の学校に来たのですが、部長が彼女を案内して学校内を回っていました。
私は、他校の女子の案内で「京子さん」とは会話もできないまま、文化祭は終わりました。
数日後、彼女の学校から私達写真部へ文化祭の招待状が届いたのですが、文化祭へは部長を含む3年生5人が代表として行く事に決まったのです。
私は、彼女から「女子高の文化祭は、見に来るのは女子学生がいつも多くて、男子学生は少ないので、貴方にも着て欲しい」と言われたのですが、部長達が行くので代表でない私が行って、彼等に会うと困るので行かない事にしました。
そして後日、彼女と会った時はお互い文化祭に関して少し物足りない気持ちだったのです。
私達は、3年生になると少しずつ就職活動が始まりました。早い人では、夏休み前に就職先が決まる者も出てきます。
当時は、みんな民間企業へ希望して、公務員などの役人を希望する人は少なかった時代でした。
私の父は、私が公務員になるのが希望のようでしたが、私は民間企業を選びました。
私は、先生から当時は新業種として将来性が有望視されていたコンサルタント業の会社を進められました。私は、その会社の入社試験を経て、秋には採用が決まりました。
この会社には、同じクラスの田中君も私と一緒に就職する事になったのです。
私達の高校は、3年生になると就職のために「自動車の運転免許証」を取得するように自動車教習所に通う事が許されるのです。
自動車教習所は、高校の近くにあり、田中君の家も学校の近くだったので、彼と一緒に私もこの教習所へ通いました。運転実習は、朝早く教習所へ行って予約シールを貼らなければなりませんでしたが、家が遠い私の為に、いつも彼が私のシールも貼ってくれていました。
私が、運転免許証を取得できたのは彼のおかげだったと、今でも思っています。
私達は、就職先が決まると髪を伸ばし始めて、1968年3月に高校を卒業しました。_Highschool_Graduation_会社へは、4月始めから入社勤務の予定になっていたのですが、3月始めの終業式が終わると、直ぐに会社からアルバイト要請を受け出勤する事になったのです。
高校3年の冬休みの時も、会社からアルバイト要請を受け、私と田中君はアルバイトに行ってるので、入社前のこの要請に私は不満でした。
社会人になる前に、私なりに色々とやりたい事や、考えたい事などが有ったのです。
私は、父から「会社は、早く仕事を憶えてほしいので言って来てるのだから、会社の要請に応えておいた方が良い」と言われ、不満ながら出社しました。
今日は、ココまでとします。
次回のブログは、Part18: 社会人1年生_member_society_ でのお話しです。

2008年3月27日木曜日

俺の回想録 ≪Part16:サイクリングでの失敗≫_Reminiscences_Cycling_Failure_

今日は、昨日のブログの話しの続きをお話しします。
私達3人は、サイクリング_cycling_の最初の夜は西伊豆海岸の小さな漁村の青年団の人にすすめられ公会堂に一泊させて頂く事になったのです。
夜遅く、一緒だった青年団の方々が家に帰ったあと、私達は畳の上に借りた毛布に包まって眠りについたのですが、少し興奮気味ですぐには眠れませんでした。また、暑い夜のため蚊も多くいました。
私達は、家を出る時に野宿も覚悟して蚊取線香を持って来ていたので焚いて寝ました。
次の朝、早く起きた高橋君が「あ・あ・あ~」と叫んだのです。_failure_
その声で、私と大場君も目を覚まし「何だよ?朝早くから」と言って高橋君が指差す先を見てビックリしたのです。
そこには、畳にクッキリと蚊取線香の渦巻きの形で焦げた痕が着いていたのです。
私達は一瞬で目が覚めてしまいました。「どうしよう?」と高橋君は言いました。3人で色々相談した結果、私達は持ち金を全部出して謝る事にしたのです。
しばらくして、昨夜の青年団の人が「お~い、起きてるか?」と言って入ってきました。
私達3人は、畳を焦がしてしまった事を詫びて3人で出し合ったお金を渡そうとしたら、「あ~、そんな事は気にするな!俺達青年団が酒に酔って焦がした事にすれば済むから」と言ってお金を受取りませんでした。
そして、「さあ、朝飯を食え」と言って、おむすびを出してくれたのですが、私達は悪い気がして朝飯を食べずに出発しました。
青年団の人は、「この先からは、山道だから大変だからよ、気をつけて行け」と言って手を振って分かれたのです。
300mほど走って村を抜けた所から、先は急勾配の山道になっていました。
そこから先は、私達は自転車を降りて押して歩きだしました。歩いては休み、歩いては休みの連続です。あのカーブを曲がれば自転車に乗って走れるのではないかと思い、幾つものカーブを曲がりましたが、結局3時間以上ずっと自転車を押して歩いていました。
そして、伊豆で最も高いと思われた達磨山峠に着いたのです。
私は、この調子だと自転車での「伊豆一周」は無理ではないかと思い、2人と相談しました。結果、計画を変更して修善寺を経由して沼津に向かう事にしたのです。
これは、Uターンして理路を走る事になるのです。達磨山峠から修善寺までは下りの山道だったので、私達は自転車に乗って殆どペダルを扱がずに走りました。
沼津の街に着いた時は、すでに周囲は暗くなっていました。
途中、夕食のため道端の小さなラーメン屋さんに入りました。3人とも空腹でラーメンの大盛りを注文して、汁まで残さず食べてしまいました。
食べ終わった時、高橋君が「汁が残ってないとカッコ悪くないか?」と言ったので、テーブルにあった醤油と水をそれぞれの丼に少し入れて偽装したのを今でも覚えています。
私達は、ラーメンを食べながら、その夜の泊まる所の相談をしました。その結果、千本松原の海岸で野宿する事に決めました。
ラーメン屋さんを出てから、30分程走って私達は千本松原に着きました。
海岸防潮堤を背にして、各人砂浜にテント代わりのこうもり傘をさして、その中で寝ようとしていた時、防潮堤の上を遠くからパトカーが近づいてきたのです。私達3人は、「どうしよう?」補導されるのではないかと怯える気持ちだったのです。
パトカーは私達の近くで停止して、窓から懐中電灯の光を私達に向けたのです。そして、私達に近づいて来て「君達は何処から来たの?」と尋ねられたのです。
私達は、「夏休みで、サイクリングに来てココでキャンプしているのです」と言ったら、私達の香取線香の煙を見て「火気に注意しなさいよ」とだけ言って、パトカーに戻って私達の所から去って行ったのです。
ホットした気もちで寝たのですが、一晩中蚊に襲われて3人とも殆ど眠れませんでした。
朝の光が非常に眩しくて、目が痛いように感じたのを覚えています。
朝になって周囲を見回したら、松林の向こうに昨夜気付か無かった公園を見つけたのです。
私達3人は、その公園のトイレの手洗い場で顔を洗った後、千本松原を出発したのです。西に向かって帰路を走りました。
1時間ほど走った時、先頭を走っていた大場君の後輪タイヤがパンクしてしまい、そこから3人は自転車屋さんを探して、それぞれの自転車を押しながら4kmほど歩いたのです。
自転車屋さんを見つけてパンクの修理に30分ほどかかり、再び帰路を走りました。
パンクが直り、走り始めた私達は急に空腹を感じて、まだ朝飯を食べていなかった事に気付いたのです。すぐに、近くの食堂を見つけて少し早い昼食を取ることにしました。
私達は、残金を確認して「カツどん」と「カレーライス」のどちらを注文しようか迷いました。今に思うと、それぞれ好きな物を注文すれば良いのに、その時は何故か?3人同じ物を食べる気持ちになっていたのです。
食堂を出てから、2時間半ほどして2日前に自動車の排気ガスで苦しい思いをした宇津ノ谷トンネルまで帰って来たのです。
私達3人は、トンネルの入口で少し休ん後、手ぬぐいを目の下で巻き口を覆った姿でトンネルに入りました。力の限り自転車のペダルを扱いでトンネルを抜けました。
トンネルを過ぎて1時間ほどで大井川の堤に着きました。私達は、その場所で別れてそれぞれの家に帰ったのです。
そして、このサイクリングでの出来事_cycling_failure_が私達3人の夏休みの思い出となったのです。
今日は、ココまでとします。
次回のブログPart17: 高校卒業_graduation_までをお話しします。

2008年3月26日水曜日

俺の回想録 ≪Part15:思い出のサイクリング≫_Reminiscences_Memory_Cycling_

今日は、私が高校時代に経験した中で最も記憶に残っているサイクリング_memory_cycling_のお話しをします。
私には、高校生になってクラスの中で特に仲の良かった友達が2人いました。
一人は「大場君」と言い、彼は私と同じ中学校の出身でしたが、中学時代はお互い顔は知ってはいましたが、クラスが異なり、お互い話もした事が無く親しくなかったのです。
しかし、高校生になって同じクラス、同じ中学校、お互い自転車通学なので、朝は別々の登校でしたが帰りはいつも一緒に帰る仲だったのです。
そして、もう一人が「高橋君」です。彼は隣町の中学校の出身で、やはり自転車通学でした。
私達の高校では、体育の時間に柔道を習う時間が設けられていました。ある日、体育の時に私の練習相手が彼になったのです。彼は、中学生の時から柔道を習っていて、私より背が低いのですが、彼におもいっきり投げられたのです。
彼は、「手加減もしないで本気に投げてしまって済まん」と言って、私に詫びたのです。
それからは、何故か?練習で彼と組むのが多くなったのです。私は、彼から技のかけ方を習いました。 そして、彼が時々日曜日に私の家に遊びに来るようになり、私も彼の家に行ったりする仲になったのです。
私は、特に自転車が好きと言うわけではないのですが、あれは高校2年の夏休みのことでした。
私と、大場君と高橋君の3人が集まった時に、大場君が「夏休みの思い出に3人でサイクリングに行かないか?」と提案したのです。私は「いいね、いいね~」、高橋君「行こう、行こう」となって、サイクリングに行く事になったのです。
行き先は、「伊豆一週を2泊3日で走破」、「予算は一人2,000円」、「宿泊はテントが無いのでお寺かどこかに泊めてもらう」、「出発は3日後の朝9時に大場君の家に集合」、という事に決まったのです。
大人になった今、思えば何とムチャな計画ですが、その時の私達はできると簡単に考えて行動したのです。 _cycling_
出発の朝、高橋君が15分遅れて来たので、9時15分に出発しました。
私達3人は、国道の端を縦に一列となって走りました。出発して、40分後に第一の難関である宇津ノ谷トンネル(全長500m程)に入ったのですが、中は自動車の排気ガスが充満していて、真ん中付近に来た時には息ができない程で、気が遠くなる様な感じになりました。
どうにか、3人がトンネルを抜け出た所で一息付いたのですが、みんなの顔に黒いススが汗で流れていたのを覚えています。
その後は、トンネルも無く順調に走りました。走っていると、対向して来る同じサイクリングの人達が私達に手を上げるのです。
私達は、長距離のサイクリングは初めてで何も知らなかったのです。「何だろう?」と疑問に思って走りました。
そして途中、冨士川を過ぎた所のお店で小休止して、当時飲み物のコーラが出始めた時で、私達はその場所で初めてコーラを飲みました。
私達3人の初めてコーラを飲んだ感想は、大場君「ウメ~大人の味だ」、高橋君「何か複雑な味だな~」、そして私は「薬臭い味だ、サイダーの方が好きだな」でした。
私達が休憩していると、次々に人が店にやって来ました。その中には、サイクリングの人などもいて、一人の方が「君達もサイクリングか?」と聞いてきたのです。
私は、「そうです」と答えて、その方に聞いてみました「私達が走っていると、対向して来るサイクリングの人は、みな私達に手を上げてくれるのはなぜですか?」答えは、「それはサイクリングのマナーで頑張っている相手への挨拶と励ましなんだよ」と教えてくれました。
私達は、休憩を終わりにして出発しました。
休憩後は、対向して来るサイクリングの人へ、先ほど覚えた手を上げる挨拶をしながらペダルも軽く順調に進みました。
その日、午後3時半頃には伊豆西海岸の「立保」と言う漁村に着いたのです。走行距離は80km程になります。
私達は、村の入口に立っている火の見櫓の下で休んでいると、地元の青年団の人が近づいて来て、私達に「君らは何処から来たんや?、サイクリングか?」と聞かれ、私達はそれぞれの住所とサイクリングの予定を話しました。
そしたら、「この先は、海岸沿いの山道で民家も無いから、途中で夜になってしまうぞ。君らは、今夜の寝泊りする場所はあるのか?」と言われ、私達3人は「今日は、ココの海岸で野宿して、明日の朝ココから出発しようか?」と相談をしていたら、「今夜、青年団が公会堂に集まるから公会堂に泊めてやるョ」と言ってくれたのです。
私達は、この言葉に甘えて公会堂に泊めて頂く事にしました。夜になるまで海岸を散歩したりして時を過ごし、夜に公会堂に行ったのです。
青年団の方達は、7人でスルメを齧りながら酒を飲んだり歌ったりしていました。
私達が入っていくと、「さあ、上がれ上がれ」と言ってくれて、みんなの端に「おむすび」まで用意してくれてありました。
その夜に、私達は大失敗を犯してしまったのです。
今日は、ココまでにします。
この続きは、次回のブログPart16: サイクリングでの失敗_cycling_Failure_ をお話しします。

2008年3月25日火曜日

俺の回想録 ≪Part14:高校生活≫ _Reminiscences_High school life_

私が、入学した高校は新設校で、私達1年生は第3期生になります。
学校は、体育館はありましたが、プールは建設途中でした。また、広い運動場も有りましたが周辺には植樹中で土などが盛られており、運動場には小石が沢山散乱しており、私達は体育の時間にいつも30分ほど石拾いをさせられました。
校則も、新設校であるということで特に厳しく、男子生徒は坊主頭で黒の制服、制帽、靴は白いズック靴で皮靴は3年の3学期からとなっていたのです。
また、喫茶店に入るには父兄同伴でなくてはいけなかったのです。
私が、1年生の時3年生の先輩から「本校の学生の姿は、修学旅行に行ったら旅館の人に中学生に思われた」と言ってました。
私は、新設校ではない他校の生徒の長髪で皮の靴を履いた姿を見るとカッコイ~ナと羨ましかったです。
私が、高校生になったのを実感できたのは、勉強内容はもちろんですが、授業の筆記がテスト以外は万年筆でした。また身に付けている腕時計、教科書を入れた皮製の下げ鞄などでした。しかし、1人の学生の姿として見るとアンバランスでカッコ悪いと思いました。
私の学校では、近隣の高校に無い行事がありました。それは、冬になると「耐寒訓練」といって1週間朝7時までに登校して、上半身裸になり下は短パンでラジオ体操を行い、その後、学校の周辺を3km走るのです。そして、最後の日はマラソン大会となり10kmの距離を競走するのです。
私は、1年生で最初のマラソン大会の時でした、スタートして4km位の地点で最も息が苦しくなりました、しかし休まず走り続けると急に苦しみが無くなり楽に走れていたのです。ですが、私の足の感覚が無くなっていったのです。正確には足の平の感覚が無くなり足の先が棒の先で立って走っている様な感じでした。
私は、どうにか完走してゴールしたのですが、ゴールしてグランドの端に座ったら後は、動けませんでした。私の足が大きく腫上ってしまったのを見た友達が先生を呼んで来て、そのまま接骨医に連れて行かれました。
そして夕方まで休んでから、湿布薬と包帯で膨らんだ足を引きずり学校近くのバス亭からバスで家に帰ったのです。
次の朝は、まだ足の腫れも痛みもひかない為靴が履けなかったので下駄を履いて学校に行ったのです。その日の帰りのバスで、途中の乗換所でバスを待っていたら、2人組の3年生が私に近づいて来て「お前のそのカッコウは何だ!」と言って私の胸を掴み、睨みつけられ「1年生のくせに、そのカッコウは生意気だ」と言われ、私は事情を説明しました。
その時、説明しても分からず殴られたら、私は下駄で殴り返してやるつもりでいたのですが、先輩達は「分かった、気おつけて帰れよ」と言ってくれて「また、誰かに俺達のように言われたら、俺達の名前を言え」と言って2人の名前を教えてくれたのです。
次の日、学校でクラスの友達に2人の名前を聞いたら「青島君、その2人の先輩は本校の番長と副番長で建設科の先輩だよ」と教えてくれました。それを聞いた時、私はビックリしました。そして、なぜか3年生が大人に見えて恐ろしい存在に思えたのです。
私は、いつも自転車で通学していたので知りませんでしたが、バス通学の生徒達には我が校のマナーがあって、①先輩には席をゆずる事②年寄りには先輩より先に席をゆずる事③車内では静かに話す事 この3つは厳守になっていて、3年生が下級生の車内でのマナーをチェックしているのです。
私は、2年生の時まで自転車通学でしたが、雨の日だけバスを利用していました。
6月の梅雨の時期はバスの日が多くなりました。梅雨ですから午後になると晴れて、帰りのバスの中は蒸し暑く感じました。
当時のバスには、運転手の男性と一緒に若い女性のバスガールが乗っていて、バスの乗降口に立って切符を切ってくれてました。
梅雨時は、バスガールの服装が白いブラウスと紺のスカートでした。私達、高校生は丁度思春期だったからでしょうか?バスガールのブラウスに下着が透けて見えている事に興奮して、股間がムズムズしてズボンが突っ張りました。恥ずかしいので鞄を膝の上に載せてそれを隠し、バスから降りる時は困ったものでした。
当時の田舎では、ミニスカートはまだ見られなかったです。私が、膝までのミニスカートの人を最初に見たのは、高校の修学旅行で彦根城を見学している時でした。高校生活_high school life_は、進級するごとに勉強、クラブ活動、宿題(課題)等に追われ忙しくなりました。
今日は、ココまでとします。
次回のブログPart15: ???? これから考えて、明日お話しします。

2008年3月24日月曜日

俺の回想録 ≪Part13:高校入試≫_Reminiscences_Entrance examination_

私が、中学1年生(1962年)の時は戦後の1次ベビーブームの先輩達が卒業するので近隣の街に公立高校が数多く新設されました。
その年は、ソビエト(現在のロシア)が人工衛星に初めて犬を乗せて打ち上げに成功した年でもありました。
また、最初のカラーテレビができて東京タワーの建物の中に展示されていたのもこの頃だったと覚えています。
中学生になった私や友達は、外国の音楽に興味を持つようになりました。特にポピュラーソングが好きで、当時のラジオ番組「9500万人のポピュラーヒットソング」を夢中になって聞きました。
当時、日本の全人口は9500万人だったのです。そして、1ドル360円の時代でした。
また、私が住んでいた田舎ではバナナは知っていても、実物を見たことも食べたことも無かったのですが、海外で台湾コレラが流行して値が下がり、田舎の私達でも食するようになったのが、たしかこの頃だったと思います。
私は、中学2年、3年と進級して高校受験生の生活が始まりました。当時、私達の高校受験_entrance examination_の試験科目は数学、国語、理科、社会、英語、美術、音楽、保健体育、技術家庭の9教科でした。
私は、中学3年まで自分の将来について考えた事も無く、大人になったらどんな職業に就きたいなどの目標はありませんでした。ですから、試験勉強も特に努力したとは思いません、その時の自分の能力で入れる高校を選択しただけでした。
私の家は、米穀店のため長男は商業高校に進み、次男は普通高校に進んだので、私は父が「お前は、小さい時から工作が好きで手先が器用だから工業にしたらどうだ」の一言で工業高校へ進むことに決めました。
また、家の近くに建設省を退職した方が住んでいました。父は、役所で働く方は偉い人といった考えがあり、私にも役所に就職させたいようでした。
私は、父の言葉にそのまま従い工業高校の建設科を受験しました。結果は「合格」しましたが、自分が受験に一生懸命努力した感じが無かったので「良かった、嬉しい」と言った感動はありませんでした。
私の友達の大石君は、普通高校に合格、松野君は商業高校に合格したのです。
3人は、公立高校なので合格発表の日は同じで、次の日に松野君の家に集まり、私達3人を松野君の義姉と杉山京子さん(初恋の人)が祝ってくれたのです。
私のクラスでは、半数の人が中学を卒業して就職しました。当時、中学を卒業して就職する人は「金の卵」と言われて地元の鉄工場、食品工場など、また東京や名古屋、大阪など大都市へ出て行ったのです。
1965年の春、私は県立工業高校(建設科)に入学しました。_entrance to school_
私の通う高校は、家から18kmほど離れた街にありました。友達の大石君の通う高校も同じ位離れた別の街にありました。
私達は、毎朝一緒に自転車で通学しました。通学路の途中で、それぞれの高校の街に分かれるのです。こうして、2年間彼と一緒に自転車通学をしました。
そして、3年生になって私はある出来事が起こりバス通学に変わりました。
ある出来事とは、次回のブログPart14: 高校生活_high school life_ でお話しします。
今日は、ココまでにします。

2008年3月23日日曜日

俺の回想録 ≪Part12:初恋(再会)≫_Reminiscences_Reencounter_

今日も、昨日のブログ「私の初恋」_First love_の続きをお話をします。
私は、地元の中学校に入学しました。
私が、住んでいた町には小学校が東小学校、西・・・、南小学校の3校有りました。
中学校は、1校でそれぞれの小学校の生徒が集まる中学でした。全生徒数が1,500人弱で、私達1年生は440人で11クラスありました。
私が、中学校に入学した時は全生徒が戦後のベビーブームで生まれた子供だったので生徒数が最も多かったのです。
中学に入学して、2週間ほどで自分のクラスにも慣れましたが、別の中学校へ行った彼女のことが忘れられませんでした。
入学当初は、彼女の夢を毎日のように見ました。しかし、小学校とは生活環境が異なり、半年過ぎた頃から彼女の存在が薄らいでいきました。夢に彼女が出てくるのが1週間に1度、2週間に1度、1ヶ月に1度、2ヶ月に1度、・・・・・・となりました。
私には、小学校6年間中に4年間クラスが同じだった「大石君」と言う、仲の良い友達がいます。大人になった今でも時々連絡を取り合っては酒を飲みます。
私が、中学2年になったある日、隣のクラスだった大石君が私のところに来て「青島君、今日一緒に帰らないか?話があるんだ」と言って来ました。
放課後、私は彼のクラスへ行き「大石君、帰ろうか」と誘ったら、彼の側に松野君が居ました。
松野君も南小学校からの生徒ですが、私はクラスが一緒になった事が無いので顔は見知っていたが、付き合いは有りませんでした。
その日、私達3人は一緒に帰りました。
途中で、大石君に「話があるって言ってたけど、何?」と聞いたら、大石君が「最近、この松野君のお兄さんが、日本舞踊の先生と結婚したんだって、それで君と仲が良かった杉山京子さんは、その義姉のお弟子さんで、松野君の家に踊りを習いに時々来るそうだよ」と言いました。
そして、松野君が私に「義姉さんから聞いたんだけど、京子さんは小学校の時に好きな男子がいて、それが君なんだ、義姉に君のことを色々聞かれたよ」と言いました。
そして、「今度の日曜日、大石君と一緒に俺の家に遊びに来ないか?そして、義姉さんに会ってくれないか」と言われました。
私は、忘れかけていた人を急に思い出して、「そうなんだ、彼女も僕と同じ気持ちでいたんだ」と思い、みるみる胸の中で嬉しさと会いたい気持ちが膨らみました。
その日から、当日の彼の家に着くまで、私は松野君の義姉に何を聞かれるのか、その事ばかり考えていました。
そして当日、大石君を誘い2人で松野君の家へ自転車に乗って行きました。
彼の家に着いて、松野君は「義姉夫婦の部屋は2階だから、上に行こう」と言って、私達2人を案内してくれました。
2階の義姉夫婦の部屋に入った時、そこに松野君の「義姉」と「杉山京子」さんの2人がコタツに入って座っていました。 私は、彼女とそこで再会_reencounter_したのです。
私達は、その部屋で4人でトランプをしながら、それぞれの近況を話したりして3時間程楽しく過ごしました。
そして、今度いつ会えるのだろうか?約束の無いまま、私は大石君と2人で家に帰ったのです。
その日以来、私と大石君と松野君の3人での付き合いが、大人になった今でも続いているのです。
私は、彼女と再会してからは月に1・2回松野君から連絡があると、彼の家で彼女と会うだけの交際でした。
中学3年になると、クラスの仲間は高校進学組と就職組にそれぞれ進む道が分かれてきました。
私が卒業した中学校は、現在では高校への進学率はほぼ100%ですが、当時は50%程で半分近くの人は中学から就職の道に進みました。
私は、勉強が好きでは無かったのですが、上の兄達2人も進学したので自然と進学組でした。そして、高校入試の勉強など学校生活が忙しくなり、と言うのは嘘です。それも有りましたが田舎だったので周囲の目もあり、受験生は家から出て遊ぶ事ができない雰囲気もあったのです。
ですから、自然と彼女と会う事も少なくなりました。
今日のブログ、ココまでにします。
続きは、次回 Part13: 高校入試_entrance examination_ をお話します。

2008年3月22日土曜日

俺の回想録 ≪Part11:初恋(出会いと別れ)≫_Reminiscences_Encounter_Parting_

みなさんは、思い出すと会いたくて胸がギュウーと締め付けられ痛みを感じる思いをした事がありますか?私にはあります。それは、私が中学2年生の時、学校から家に帰る途中で起きたのです。
そうです、初恋の人を思い出した時になったのです。
今日は、その初恋の話しをしたいと思います。
私が、彼女の存在を知ったのは小学校3年生の時でした。下校の掃除中に私の隣クラスにいる可愛い子を見つけたのです。_Encounter_
私は、すぐに掃除中の友達に「あの子は、何て名前の子?」と聞きました。すると、友達は「お前知らないのか?あの子は杉山京子といって、幼稚園の園長さんちの子だよ」と教えてくれました。
私は、その幼稚園の最初の卒業生でしたが、幼稚園では彼女のことは知りませんでした。
友達に「幼稚園の時、あの子は居なかったよ」と言ったら、「あの子はバスで遠くの幼稚園に行ってたみたいだよ」と言いました。
私は、その時は「そうなんだ」と納得しただけでした。
彼女のお父さんは農協の役員で、また幼稚園の園長さんでもあり、地元では有力者で、私の母なども一目置いて高く見ていた家だったのです。
私には幼稚園の園長さんである、彼女のお父さんは小学校にも時々来る時があり、校内で私と会うと「ショウゾウ君元気かね、勉強は楽しいかね、お母さんも元気ですか」等と、いつも声をかけてくれました。
私が、彼女を強く意識し始めたのは小学校5年生の時でした。
私と彼女は同じクラスになったのです。
それ以前は、彼女は小さい時から日本舞踊を習っていて、小学校の学芸会ではみんなの前で踊りを見せてくれたりして高嶺の花でした。その時、あこがれの様な気持ちになってもクラスが異なり、私の中には彼女の存在が殆ど無かったのです。
しかし、ある日彼女のお父さんが学校に来た時、お父さんと彼女と私の3人が偶然校庭で出会ったのです。そして、お父さんが私に彼女が娘で、私が幼稚園の卒園児代表だったことを彼女に話したのです。その時から、私は彼女を強く意識するようになったのです。
これは、後で彼女から聞いたのですが、お父さんから「幼稚園で、泥団子を投げて遊んでいたワンパク園児の貴方の話しは、以前から聞かされていた」そうです。
それからは、私の小学5年の学校生活が毎日楽しくなりました。
そして、私達は小学6年に進級しました。
6年生のクラスは、担任の先生もクラスの仲間も変わらないで5年生の時のままでした。私は、内心で「やった~、また1年間彼女と一緒だ」と叫んでいました。
私達の小学校では、この年(1962年)から学校給食が始まりました。給食は、アルミ製のトレーと食器にコッペパンと脱脂粉乳と日替わりのおかずの3品が盛られていました。
私達男子は、給食を残さずみんな食べても足りない気持ちでしたが、なぜか?女子の人は全員コッペパンを半分ぐらい残していたのを覚えています。
また、6年生になると「週番」と言って各クラスから男女一人づつ集まって、一週間毎日朝と帰りに学校内を巡回して校内風紀を見て記録する役目が始まるのです。
先生から、この週番の組み合わせ表が配られた時、私は自分の幸運に驚きました。そこには、偶然にも6年5組の私の名前の横に彼女の名前があったのです。そして全クラスメンバーの週番長になっていたのです。
この外にも、6年生の学校生活で彼女との思い出は沢山ありますがブログに書くと限が無いのでこれ位にします。
そして、小学校の卒業近くになりました。私達6年生の殆どは、地元の中学校に入学したのですが、彼女は通学にバスと電車で1時間ほど離れた町の「女子中学」に入学したのです。
私は、中学生になっても彼女が私の身近に居てくれるものだと勝手に思っていたのです。
放課後、週番の会議室で彼女から女子中学への入学を聞いた時は、頭の中が真っ白になりました。
何を言ったら良いのか分からず、ただ「そうなんだ」と言ったきりで、沈黙したまま二人で下校したのです。彼女の家は、小学校から歩いて5・6分と近いのですが、私の家までは20分以上かかります。
私は、あの日二人で学校を出た迄は覚えているのですが、どこで彼女と別れて、どの道を通って家に帰ったのか、今でも思い出せません。記憶が無いのです。
そして、私は卒業式を最後に彼女と会うことも無く離れてしまったのです。 _Parting_
今日のブログは、ココまでにします。少し話が長くなってしまい申し訳ありませんでした。
この続きは、次回 Part12: 私の初恋(再会)_reopening_ でお話しします。

2008年3月21日金曜日

俺の回想録 ≪Part10:我が家にテレビが来た≫_Reminiscences_TV_house came_

私達が幼い頃は、田舎の家庭での娯楽と言えば①ラジオを聴くこと ②年に1度のお祭りと祭りの時に来る旅役者の芝居を見ること ③役場の人が年に1・2回町の公会堂で上映する映画の鑑賞 ④学校行事である運動会・学芸会 などでした。
テレビが田舎の家庭で購入し始めたのは1960年前後の頃で、田舎でも裕福な家にしかありませんでした。ですから、私も小学3・4年生頃は友達と近所の「テレビのある家」へ夕方になると「テレビを見せてください」と言ってその家の人達と一緒に見せてもらっていました。
当時のテレビ番組は、<NHK>と<NHK教育>と<民間放送>の3局だけで、画面は14インチの白黒でした。スイッチを入れ、しばらくすると画面が映りました。また、スイッチを切ると画面中央に光の点がしばらく残っていました。
子供番組は少なかったけど、みんなテレビが自分の家に有ったら良いな~と思っていました。
私達は、学校に居る時もよくテレビ番組を友達と夢中になって話し、友達が見れ無かった番組を自分が見た場合にはチョット自慢気になったものです。
私は、よく父にテレビを買って欲しいとねだりました。しかし、父は毎回「テレビは高価だからだめだ」でした。ある日、母が「あそこの駄菓子を売っているゲタ屋さんが、テレビを買ったら子供たちのお菓子が売れるようになったと聞いたけど」と父に言いました。でも、だめでした。
母は、父が「買って良し」と言えば買ってくれそうでした。
それから数日過ぎたある日、我が家にテレビの購入チャンスがやってきたのです。
私の父は、お酒も、タバコも嗜みますが量は多くはありません。お酒を飲んだ時は、賑やかでキマエの良い人になってしまうのです。
その日、夜遅く父は近くの家の結婚式から酒に酔って帰宅したのです。
母と私達兄弟4人は寝ないで父を待っていました。それは、母から夕食の時「今日、お父さんは酔って帰って来るからお願いしたらテレビを買ってくれるかもしれないよ」と言われたからです。
夜10時頃、母の言ったとおり父は酒に酔って帰ってきました。そして、私達兄弟は父にテレビを買ってくれるようお願いしました。父は、「分かった分かった」と言って電話で電気屋さんにテレビを注文してくれたのです。
その夜は、私も兄達も嬉しくて眠れませんでした。
そして次の朝、父はいつものように店で仕事をしていると、1台のダンボールの箱を積んだトラックが店の前で止まりました。運転席からニコニコ微笑みながら電気屋さんが降りて父にテレビの注文のお礼を言い始めると、父はビックリして「私は注文などしていない」と言い出したのです。
しかし、もうテレビは配達して来ているのです。父は、母から昨夜の説明を聞いてシブシブ承諾したのです。そして、ついに我が家にテレビが来たのです。 _TV_house came_
次の日から、夕方になると家の近所の大人達と子供達(私の遊び仲間等)が我が家にテレビを見に来るようになりました。我が家の6帖の居間は、まるで小さな映画館のようでした。
私は、その時チョット自慢気になった事を覚えています。
今日の話は、ココまでとします。
次回は、Part11: 私の初恋_First love_ をお話します。

2008年3月20日木曜日

俺の回想録 ≪Part9:友との出会いと別れ≫_Reminiscences_Encounter_Parting_

今日は、私が小学校時代に会った大勢の友達の中で、今でも忘れない友との事を紹介します。
最初の友は、私が小学校に入学する半年前に隣家へ東京から親戚の子供がお母さんと一緒にやって来て、その子は隣家に預けられたのです。_encounter_
彼は、私と同じ年齢だった事から直ぐに友達になり 「ショウちゃん」「ヒロちゃん」 と呼び合う仲になりました。彼のお父さんは、戦争で亡くなり、お母さんと彼と弟の3人家族でしたが、弟は他の裕福な親戚の養子になり、彼は隣家に預けられたのです。
隣家には、当時小学校6年生と1年生と3歳の3人の子供がおりました。そこに彼が加わったのです。
隣家のお母さんは、畑仕事の他に毎日バトミントンの網の縁にミシンでテープを縫い付ける内職をしていたのを覚えています。
私とヒロちゃんは、同じ小学校に入学して毎日一緒に通学していました。
彼は、時々家の外で泣いている時がありました。私の母が泣いている「ヒロちゃん」に「どうしたの」と理由を聞いたら「ぼくがご飯を沢山食べるので叱られる」と彼は言ったそうです。
私の家は、お米店ですが駄菓子も売っていたので、母は時々「ヒロちゃん」が泣いていると、おにぎりとかお菓子を隣家に内緒で与えていました。
今、私は大人になって思うには隣家のお母さんは怖い人ではなく良い人でしたが、当時の生活環境から自分の子供と甥っ子では接し方が異なっていたのだろうと思います。
そして、私と彼が小学校1年生を終了した春休みに、彼のお母さんが彼を迎えに隣家へ来て彼を連れて行ったのです。彼は、少し前に「お母さんがもう直ぐ迎えに来てくれる」と喜んで私に話していたので、私と母も一緒に喜びました。
出発の日、彼がお母さんと一緒に私の家へ挨拶に来た時、私の母は彼の服のポケットが膨らむ程に店のお菓子を入れてあげました。彼とお母さんが手をつないでバス停に向かって田んぼ道を歩いて行く後ろ姿を私は今でも覚えています。_parting_
彼が去った後、私は母から「ヒロちゃん」は今度は別の親戚の家に預けられた事を聞かされました。
あれから20年以上が過ぎ、私は28歳になっていて東京で生活していたのですが、久しぶりに実家に帰省した時、母から「この前、隣家へヒロちゃんが来て、家にも挨拶に来てくれてお前に会えなくて残念だと言って帰って行ったよ」と聞かされ、その後も彼には会っていません。
母は、彼が立派な青年になっていたのでビックリしたそうです、また幸せ相で嬉しかったと言っていました。それを聞いて、平凡に生きてきた私とは比較にならない苦労を彼はしただろうと思い、本当に嬉しかったです。
また、いつの日か彼と会える事を願って私は今を過ごしています。
今日は、ココまでにします。
次回 は、Part10: 我が家にテレビが来た _TV_house came_ をお話します。

2008年3月19日水曜日

俺の回想録 ≪Part8:小学2年の出来事≫_Reminiscences_Elementary accident_

今日は、私が小学2年生の時に起きた出来事_elementary accident_を紹介します。
あれは私が小学2年生(1962年)の秋だったと思います。私の家の隣家は、萱葺屋根の農家でしたがお父さんは遠洋漁業の船乗りで、家に居られたのはお正月の時などでほとんど家には居られませんでした。そんなわけで畑仕事などはお母さんと子供達で行っていました。
ある日、私より6歳年上の長男(中学2年生)の方が畑に敷く為に藁束を「押切り」で細かく切っていました。私は、その横で切られた藁を集める手伝いをしていたのですが、私が手を出した瞬間に「押切り」のハンドルを下げてしまい、私の左手の薬指が切れてしまったのです。
その時、私は何が起こったのかわかりませんでした。
切れたのは爪の下の間接付近で皮1枚残して垂れ下っていたのです。神経まで切断されたためか痛くなかったので泣きませんでした。私は、自分で垂れ下っていた指先を右手で摘んで元の指の位置に乗せたのです。
隣のお兄さんは、大声でワァーワァーと泣き叫びました。その声を聞いて隣家からお母さんが飛び出して来て「困った、困った、とんでもない事になってしまった」と言って私の母の名を連呼していました。
その声を聞いて母も家から出てきましたが、私の様子を見て一瞬何が起きたのか分からない様子でしたが、直ぐに自分の首に巻いていた手ぬぐいを私の切れた指と手の平まで巻き付けて、私を自転車の後ろに乗せて2km程離れた病院(診療所)へ走りました。
病院に向かう途中で、私の左手の切断部から急に血が出てきて巻いた手ぬぐいは直ぐに真っ赤に染まり、血は腕から肩にかけて流れ始めていました。
病院に着いた時、看護婦さんが私を見て驚いた顔は今でも覚えています。
私は直ぐに診察室のベッドに仰向けに寝かせられました。そして医者と看護婦さんが何やら話してから、医者が「では押さえて」の言葉と同時に看護婦さんが私の左腕の手首をがベッドの横のテイブルに押さえつけました。そして直ぐ後、私の手に激痛が走り始めました。私はその激痛に泣き叫んで暴れました。
コレは、後から母が私に話してくれた事ですが、その時医者は私の指をつなぐ為に縫っていたのですが、私がまだ幼いので麻酔を使うとつないだ指先が腐る可能性があるとの判断で麻酔無しで縫ったそうです。
母は、診察室の横の待合室に居て私の泣き叫ぶ声を聞いて失神してしまって待合室の長い椅子に寝かされていたそうです。その日、どの様にして家に帰ったのかは思い出せません。
私の指がつながり、手が使えるようになるまでに100日かかりました。途中60日ほど経った時にはつないだ指先は紫色に変色してしまい医者は「駄目かも知れない」と母に言いました。
しかし、母は私が指を切った次の日から治るまで毎日、私のために神棚に向かって朝と夜に手を合わせてくれていました。その甲斐もあってか80日ほど経ったある日、私は指が痒かったので包帯を取り外したら紫色した指の皮が剥け始めていたのです。そして、その剥けた皮の下から綺麗な肌色の指が見えていたのです。
私は、直ぐに母に見せようと仕事をしている所にいきました。母は私の手を見て「なぜ包帯を解いたの」と叱りましたが、紫色の指先を見て驚き、涙目になって「良かった、良かった」と何度も言ってました。
そして、100日程過ぎて私の指は旧のように治ったのでした。
治った指は、つないだところから少し曲がってはいますが生活には何も支障無く、指をつないでくれたお医者様には今でも感謝しています。
今日は、ココまでです。
次回 は、Part9: 幼い頃の”友との出会いと別れ”_friend_encounter_parting_ をお話します。

2008年3月18日火曜日

俺の回想録 ≪Part7:小学生時代(2)≫_Reminiscences_Schooldays_

1960年頃までは、私_Schooldays_の家の照明は電球にお皿の様な笠が付いた物でした。電球も透明で中のフィーラメントが見える物で、しばらくして白い不透明ガラスの電球になりました。
そして、私が小学校3年生の時に家に蛍光灯が付いたのです。
ある日、私が夕方まで遊んで家に帰って来ると、家の前が明るいのに驚きました。兄も家の外でも新聞紙の文字が読めると騒ぎました。
それから、私の家はお米店だったので近所の家にはまだ無かった電話機がありました。近所の人が病気になった時、また用事などで私の家の電話を利用していました。当時の電話機は、黒い色をしていて横に付いている小さなレバーを回して交換台を呼び出して、相手方の番号を言うと回線がつながるものでした。
蛍光灯が家に付いてから、しばらくすると電気洗濯機、冷蔵庫、電気アイロン、電気釜等の電化製品が家の中に入って来ました。それまでは、電気製品といえば照明の電球と仕事で使う精米機のモーターぐらいでした。
電気洗濯機が家に来る前は、母がタライ(浅い木の桶)と洗濯板による手洗いでした。
冷蔵庫が無かった時は、夏になると食事の後に残ったご飯は腐らない様に丼に盛って、それを風呂敷に包んで家の軒下に吊るしていました。
また、電気釜も無かった時は台所のカマドでご飯を炊いていました。
こうして、田舎でも生活に電化が急速に進んでいったのです。
当時、国の食料改善事業として地方の婦人会などが主になって料理教室を開いたりしていました。ある日、私の母が料理教室から帰ってきて食卓にサラダを出した時は母以外の家族はみんなビックリしました。それは、今まで田舎では料理として生野菜を食べる習慣は無く、野菜は煮るか漬物のどちらかだったのです。
また、現在大人になった私達が食しているご飯は白米(お米100%)ですが、子供の頃に食していたご飯は押し麦と白米の混ざり合ったものでした。※押し麦(麦粒を押し潰して平らにしたもの)
近頃では、麦が混じったご飯は「健康食」と言うのでしょうが、当時はお米は貴重で麦は安値だったから一般に食されていたのです。白米と味の比較をすれば美味しくありません。
また、生活水として蛇口を捻ると水の出る町営の水道施設ができたのは私が小学校3年生の頃だったと思います。それ以前の生活水は、各家に地下水の汲み上げポンプ(人力)がありました。
私は、最初に水道水を飲んだ時のカルキ(消毒薬)の味が嫌いで飲み慣れるまでに時間がかかりました。
今日は、ココまでにします。
次回 Part8: 小学2年におきた出来事_elementary_accident_ をお話します。

2008年3月17日月曜日

俺の回想録 ≪Part6:小学生時代(1)≫_Reminiscences_Schooldays_

いつの頃からか、今の小学生は私服で登校していますが、私達の子供の時_schooldays_は男の子は坊主頭で左胸に名札を付けた黒の学生服で、女の子は紺色の上着にスカート(子供用もんぺ姿の女子もいた)が制服でした。
毎日、学校から家に帰ると制服を脱いで常着の服に着替えるのです。この常着の服は破れると母が針と糸で縫ってくれたもので、当布、縫い目、がある服は普通でした。 そして、遠くの町へ行く時とか、お正月、また行事などの時は「お出かけ着」として綺麗な服を着せてもらえるのです。
子供の1日のお小遣いは5円~10円程で、飴玉1個1円、豆腐が15円位の時でした。親戚の家に行くと 叔父さんから50円~100円程のお小遣いがもらえました。
この当時、まだテレビが無かった私達子供の楽しみは毎日近くの辻にやってくる紙芝居屋さんです。今でも紙芝居の題名は「怪傑黄金バット」とか「怪傑ライオンマン」等は覚えています。私達は、お母さんから5円貰い、紙芝居屋さんから水飴を買い、紙芝居を見ながら水飴を舐めるのです。
また、時々近くの広場に「爆し(ハザシ)屋」さんが来ました。
「爆し屋」さんが来ると、母から少しのお米を貰い「爆し屋」さんに爆してもうのですが、爆す時に大きな音がするのでみんな耳を塞いで待つのです。この爆し米も私達のおやつでした。
その他には、サツマ芋をふ化(蒸す)して薄く切り天日に干した干し芋、噛むと甘い汁が出るサトウキビなどもおやつでした。
私が小学生の時は、現代とは違い学習塾などは無く、いや有ったかもしれませんが塾に通って勉強している子供はいませんでした。毎日、学校から家に帰るとすぐに遊び場である浜辺や松林へ行き、夕方暗くなるまで遊んでいました。
勉強と言えば宿題の「漢字100字書取り」がある日だけ、夕食後に卓袱台(食事用テーブル)で済ませる位でした。
子供の時の遊びは、柳の木の枝で作った刀を持って切り合う「チャンバラ」、大きな木の枝から垂れ下がった太めの藁縄にぶら下り揺らして遊ぶ「ターザンごっこ」、また女の子と一緒に遊ぶ「ゴム跳び」、缶詰の空き缶を蹴って隠れたみんなを鬼さんが探す「缶蹴り」、野球道具などは買ってもらえないので長さ1mの棒がバットとして20cmの棒をボールとした「棒野球」などがありました。
今日は、ココまでにします。
この続きは、次回 Part7: 小学生時代_schooldays_(2) としてお話します。

2008年3月16日日曜日

俺の回想録 ≪Part5:小学校へ入学≫_Reminiscences_Elementary school_

私が入学した小学校_elementary schoo_は、家から田んぼ道を歩いて20分ほど(1.5km程)の所にある、当時は木造の校舎でした。生徒数は学年で150人ほどで5クラスありました。 私達は、戦後の第1期ベビーブームの時に生まれたので生徒数が多いのです。
入学式の日、私は今でもハッキリ覚えている出来事が起こったのです。
それは、私達1年生は入学式の後、小学校_elementary school_の中の1室で「講堂」と呼ばれている所に集められ、クラスごとに名前を呼ばれ、担任の先生に引率されてそれぞれのクラスに入って行ったのですが、私だけ名前を呼ばれ無かったので広い講堂に1人だけ取り残されたのです。
そして、頭のハゲタ男の先生(校長)が近づいて来て、私に「君のお名前は?」といったのです。
私は「○ ○ ショウゾウです」と答えたら、その先生は名簿を調べ始めました。
その時、一人の若い女の先生があわてて講堂に入って来ました。 女の先生は、私に「○○ アキミツ君?」と聞きました。私は違うと首を横に振りました。 先生は困った顔をしていました。
そこに、名簿を調べていた先生が、「小泉先生、この生徒の名前はアキミツでは無く、ショウゾウ君と読むのですよ。だから、先生の1年2組の生徒です」と言ってくれて、私のクラスが分かったのです。
そして、小学生として私の生活が始まりました。毎日、学校へ行くのが楽しかったです。
それには、理由がありました。毎朝、小泉先生が笑顔で教室に入って来て生徒一人々の名前を呼んで出欠席を確認する姿が、私には眩しく感じられて、嬉しく、楽しく思える晦日でした。
学校の授業の中で、私が得意なものは図画工作だけでした。その他の勉強はみんな苦手でした。
授業中はいつも「家に帰ったら、今日は何を作ろうか」と考えて、ノートと教科書に工作の落書を沢山描いたものでした。
ある日、先生に教科書の中の落書きを見られ、私は怒られると思ったのですが先生は微笑んで「青島君、これを作るのならココをこうするともっと良くなるよ」と教えてくれて「作り上げたら先生にも見せて」と言われ、私は先生に見てもらいたくて一生懸命に作った覚があります。
今、他の教科の勉強も同じように頑張れば良かったのにと思いますが、もう遅いですよね~。
その当時は、勉強の重要性も分からず、ただ晦日楽しく充実した日を過ごしていました。
今日は、ココまでにします。
この続きは、次回 Part6: 小学生時代の生活_elementary schooldays_ をもう少しお話しさせて頂きます。

2008年3月15日土曜日

俺の回想録 ≪Part4:幼稚園時代(2)≫_Reminiscences_Kindergarten_

今日は、私が4・5歳ごろの生活の様子をお話ししたいと思います。
私は、この頃はガキ大将で近所の同じくらいの子供達を従えて遊んでいました。しかし、ガキ大将として強がっていた反面気の弱いところもあって、私には怖いと思っていたものが3つありました。
1つ目は「父」でした。
私は、末っ子でしたので父は可愛がってはくれましたが、私が近所の子供を泣かすと理由も聞かず問答無用で殴られました。殴られた瞬間に目の中に星が散った様なものが見えるのです。
だから、父は怖かった~です。
2つ目は、お正月とか町のお祭りに見かける獅子舞です。
特にお祭りの獅子は酒に酔った青年団の人たちが中に入っていて若い女性などを見ると追かけたりするので、子供_Kindergarten_の私は怖くて獅子を見かけると急いで家の押入れに隠れました。
3つ目は、当時の神社のお祭りなど人の集まる場所には必ず傷痍軍人がいました。
白装束に兵隊の帽子をかぶりサングラスを架けて鳥居の所に立っていました。片腕の無い人、松葉杖を突いて片足の無い人、などが首から小さな箱を提げて施しのお金を頂いていたのです。
私は、子供心になぜか怖い人と思っていたのです。父に怖いと話したら怒られました。
母は、私に「あの人達はお国の為に戦争で負傷した偉い人達なんだよ」と教えてくれました。
そして、数年後(5年後程)には傷痍軍人の方々は見かけ無くなりました。
当時、私の家の近くにはお店が少なくて農家ばかりでした。そのため野菜を積んだリヤカーを自転車で曳いた八百屋さん、バイクの後ろにお肉を入れた竹籠を乗せたお肉屋さんが回って来ていました。
私は、友達と近所で遊んでいてバイクのお肉屋さんを見かけると、もしかしたら夕食は母がカレーを作ってくれたのではないかと期待したものです。我が家のカレーにお肉が入るのは月に一度ぐらいで、ほとんどはジャガイモとたまねぎだけでした。でも、私にはカレーは美味しくてご馳走でした。
今日は、ココまでにします。
この続きとして、次回 Part5: 小学校へ入学_Elementary school_ のお話しをさせて頂きます。

2008年3月14日金曜日

俺の回想録 ≪Part3:幼稚園時代(1)≫_Reminiscences_Kindergarten_

私が子供(5歳位)の時は、周辺の民家でカヤ葺き屋根の家もあり、ほとんどの家が風除けの為に薪囲いがありました。
私と近所の子供たち_kindergarten_の遊び場は、近くの砂浜で砂遊び、防風林の松林でチャンバラかカクレンボでした。また、松林の近くには戦時中のコンクリートでできた防空壕とか高射砲台の壊れた場所があり、よく冒険ごっこもしました。
私が、小学校に入学する半年前に地元に幼稚園ができて、私はその半年間だけ入園しました。
園内には鉄棒とブランコと土の山があり、私はいつも土の山で泥団子をつくり友達と雪合戦ではなく泥合戦をしていました。だから、泣かした友達は数知れずでした。
先生達にもよく怒られました。
汚れた園服を先生が何度も洗ってくれたので私の服は他の子供服より色が薄かったのを覚えています。
そんな私が、ある日園長先生から明日お母さんと一緒に幼稚園に来なさいと言われ家に帰って母に言ったら、またどんな悪さをしたのと怒られました。
次の日、幼稚園に来た母に園長先生は2週間後の卒園式で私に「卒園児代表として"お別れの言葉" を言ってもらうので、この原稿の文面を息子さんに暗記させてください」と言って一枚の紙を母に渡しました。
そして、翌日から家に帰ると母との暗記の特訓が始まりました。
私は、遊びに行きたいのに特訓をさせられて、言葉を間違えると近くで見ていた兄達に嘲笑されたりでとても苦痛でした。
そんなこんなで卒園式の当日は、どうにか無事に役目を果たし、私達は地元にできた幼稚園の第一期卒園児になりました。そして園長先生から記念品として鉛筆と筆入れを貰った事を今でも覚えています。
今日は、ココまでにします。
この続きでは、Part4: 私の幼稚園時代_kindergarten_(2)として、もう少し1955年ごろの生活を紹介させて頂きます。

2008年3月13日木曜日

俺の回想録 ≪Part2:私の誕生≫_Reminiscences_Birth_

今日は、昨日の続きで私が生まれた時_Birth_のお話しです。
父と母は、東京で新婚生活を始めました。そして長男が生まれ、翌年終戦で父の実家に帰り、別棟の物置小屋の1部屋に間借りさせてもらい親子3人の生活を始めました。
そして、私の二人目の兄(次男)がこの父の実家の部屋で生まれたのです。
しかし、終戦で定職も無く生活は苦しく、母は自分の着物を潰して下駄のはなおを作り売り歩いたりしたそうです。
そんな時、近くのお米屋さんが息子さんを戦争で無くし、家の商いを継ぐ者が居ないので私の父と母に米屋の権利を譲るから米屋を始めないかと言ってくれたそうです。
父は、東京でサラリーマン(飛行機技師)をしていたので商人(米屋)になるのは気が進まなかったようです。しかし、母はいつまでも定職が無いのは不安だからと言って父の尻を叩いて二人で米屋を始める決心をしたのです。
そして、父は先妻の子である兄に実家の財産相続権の放棄を条件に小額のお金を借りて、実家から少し離れた海辺に近い隣町で米屋を始めたのです。
そして、この海辺に近い土地で私が三男として生まれた_Birth_のです。したがって、私達兄弟は生まれた場所がそれぞれ異なるのです。
私が生まれた家は、古い小さな農家風の家でした。家の中には天井が無く屋根裏の梁をねずみが通るのを子供の時によく見ました。家の前には、別棟の小さな物置兼ポットン便所があり、裏には手動の水くみポンプがありました。家の中には6帖ほどの土間があり、そこにりんご箱を並べて、箱の上に駄菓子とお米と計量秤を置いて米屋を始めたのです。また、当時の家の台所は6帖程の土間にカマドと木の風呂桶がありした。
今日は、私の誕生_Birth_としてココまでにします。
この続きは、Part3: 私の子供時代_kindergarten_ を紹介します。

2008年3月12日水曜日

俺の回想録 ≪Part1:私の両親≫_Reminiscences_My parents_

みなさんこんにちは、今日は私のブログのデビュウーです。
このブログの目的は、ごく普通の人間である自分の過ぎてきた人生を回想して、それを記録することで過去を再確認し、これからの人生をより充実させて生きていきたいと考えたからです。
(ちょっとカッコウ付け過ぎかな?ごめんなさい。)

それでは、私の回想録_Reminiscences_の始まり、始まりで~す。

私が生まれたのは昭和25年1月15日です。
第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦の年から5年目の年で、日本が敗戦からどうにか復興して世の中が落ち着いて来た頃だと思います。
父の実家は、元は下級武士の家でお城勤めの傍ら農業もしていたそうです。明治からは代々農業で暮らしてきて、父は、その農家の後妻の子供として生まれ、先妻の子供の兄がいました。
子供の時の 私の感じでは、父は常に兄(伯父)に気を使い生活をしていました。
母は、父の実家のある隣町でクリーニング店を営んでいた家の8人兄弟の二女として生まれた人です。
この父と母_parents_が結婚したのは、戦時中で、父は東京の中島飛行という会社で飛行機を作る技師でした。
母は、浜松の病院で看護婦をしていました。
私は、母から父と結婚した時の話しを聞いたことがあります。それによると、母は病院が休みの日に実家に帰って居たら、ある日、中年女性が家に来て「人に紹介されてこの家の娘さんを見に来ました」と言っ たそうです。
この女性が、母を一目見て気に入り結婚することになったのです。
女性は、父のお母さんで東京に居る息子(私の父)のお嫁さんを探していたのです。
これは、結婚の後で分かったことですが、父のお母さんが紹介されたクリーニング店は母の実家から少し離れた同じ街道にある別のクリーニング店だったそうです。
父のお母さんは、間違って母の実家に行って結婚を決めてしまったのでした。
母は、父の写真1枚を見て戦時中で男性も少ないことから結婚を決めたそうです。そして、婚前の交際など無く結婚式の時が父との初対面だったそうです。
ココまでが、私を生んでくれた父と母の紹介です。
この続きは、Part2: 私の誕生_parents_ で紹介します。