2008年3月28日金曜日

俺の回想録 ≪Part17:高校卒業まで≫_Reminiscences_High school_Graduation_

私の高校生活は、専門高校_senior high school_のため授業が一般科目と専門科目があり、専門科目の実習と課題に忙しい毎日でした。
それでも、3年生になると私はバス通学にしたので楽しい事もありました。
それは、以前このブログでも紹介しました初恋の人である杉山京子さんが、私のバス通学に合わせて通学途中のJR駅から電車通学するようにしたのです。
私が、自転車通学の時は月に一度会える程度でしたが、バスになってからは毎日朝は一緒で、帰りもお互いどちらかが駅で待ち、一緒のバスで帰りました。時には、校則では禁止されていましたが二人で駅前の喫茶店に入った事もありました。
私が高校2年の秋、まだ自転車通学をしていたのですが、私は高校でクラブ活動は写真部に所属していて「文化祭の準備」をしていたある日、私達のクラブ室に彼女が来たのです。
私は、彼女から何も聞いて無かったので驚きました。
私の学校の写真部では、文化祭に近隣の高校の写真部の作品を募集していたのです。
私は、彼女から高校のクラブ活動は何部なのか聞いて無かったので驚きました。偶然にも、彼女も私と同じ女子高の写真部だったのです。そして、部員の作品を届けに来てくれたのでした。
その時、私も彼女も周囲の部員の前ではお互い知らない同士を装い、彼女は作品を置いて帰りました。
彼女が帰った後に、部員達の中には彼女のうわさをして騒ぐ者もいて、部長は文化祭の招待状を彼女へ出そうと言い出した事を今でも覚えています。
私が、彼女を送って学校の玄関ロビーで別れたのですが、彼女も同じ写真部の偶然に驚いていました。
文化祭の当日、彼女は私の学校に来たのですが、部長が彼女を案内して学校内を回っていました。
私は、他校の女子の案内で「京子さん」とは会話もできないまま、文化祭は終わりました。
数日後、彼女の学校から私達写真部へ文化祭の招待状が届いたのですが、文化祭へは部長を含む3年生5人が代表として行く事に決まったのです。
私は、彼女から「女子高の文化祭は、見に来るのは女子学生がいつも多くて、男子学生は少ないので、貴方にも着て欲しい」と言われたのですが、部長達が行くので代表でない私が行って、彼等に会うと困るので行かない事にしました。
そして後日、彼女と会った時はお互い文化祭に関して少し物足りない気持ちだったのです。
私達は、3年生になると少しずつ就職活動が始まりました。早い人では、夏休み前に就職先が決まる者も出てきます。
当時は、みんな民間企業へ希望して、公務員などの役人を希望する人は少なかった時代でした。
私の父は、私が公務員になるのが希望のようでしたが、私は民間企業を選びました。
私は、先生から当時は新業種として将来性が有望視されていたコンサルタント業の会社を進められました。私は、その会社の入社試験を経て、秋には採用が決まりました。
この会社には、同じクラスの田中君も私と一緒に就職する事になったのです。
私達の高校は、3年生になると就職のために「自動車の運転免許証」を取得するように自動車教習所に通う事が許されるのです。
自動車教習所は、高校の近くにあり、田中君の家も学校の近くだったので、彼と一緒に私もこの教習所へ通いました。運転実習は、朝早く教習所へ行って予約シールを貼らなければなりませんでしたが、家が遠い私の為に、いつも彼が私のシールも貼ってくれていました。
私が、運転免許証を取得できたのは彼のおかげだったと、今でも思っています。
私達は、就職先が決まると髪を伸ばし始めて、1968年3月に高校を卒業しました。_Highschool_Graduation_会社へは、4月始めから入社勤務の予定になっていたのですが、3月始めの終業式が終わると、直ぐに会社からアルバイト要請を受け出勤する事になったのです。
高校3年の冬休みの時も、会社からアルバイト要請を受け、私と田中君はアルバイトに行ってるので、入社前のこの要請に私は不満でした。
社会人になる前に、私なりに色々とやりたい事や、考えたい事などが有ったのです。
私は、父から「会社は、早く仕事を憶えてほしいので言って来てるのだから、会社の要請に応えておいた方が良い」と言われ、不満ながら出社しました。
今日は、ココまでとします。
次回のブログは、Part18: 社会人1年生_member_society_ でのお話しです。

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