2008年3月18日火曜日

俺の回想録 ≪Part7:小学生時代(2)≫_Reminiscences_Schooldays_

1960年頃までは、私_Schooldays_の家の照明は電球にお皿の様な笠が付いた物でした。電球も透明で中のフィーラメントが見える物で、しばらくして白い不透明ガラスの電球になりました。
そして、私が小学校3年生の時に家に蛍光灯が付いたのです。
ある日、私が夕方まで遊んで家に帰って来ると、家の前が明るいのに驚きました。兄も家の外でも新聞紙の文字が読めると騒ぎました。
それから、私の家はお米店だったので近所の家にはまだ無かった電話機がありました。近所の人が病気になった時、また用事などで私の家の電話を利用していました。当時の電話機は、黒い色をしていて横に付いている小さなレバーを回して交換台を呼び出して、相手方の番号を言うと回線がつながるものでした。
蛍光灯が家に付いてから、しばらくすると電気洗濯機、冷蔵庫、電気アイロン、電気釜等の電化製品が家の中に入って来ました。それまでは、電気製品といえば照明の電球と仕事で使う精米機のモーターぐらいでした。
電気洗濯機が家に来る前は、母がタライ(浅い木の桶)と洗濯板による手洗いでした。
冷蔵庫が無かった時は、夏になると食事の後に残ったご飯は腐らない様に丼に盛って、それを風呂敷に包んで家の軒下に吊るしていました。
また、電気釜も無かった時は台所のカマドでご飯を炊いていました。
こうして、田舎でも生活に電化が急速に進んでいったのです。
当時、国の食料改善事業として地方の婦人会などが主になって料理教室を開いたりしていました。ある日、私の母が料理教室から帰ってきて食卓にサラダを出した時は母以外の家族はみんなビックリしました。それは、今まで田舎では料理として生野菜を食べる習慣は無く、野菜は煮るか漬物のどちらかだったのです。
また、現在大人になった私達が食しているご飯は白米(お米100%)ですが、子供の頃に食していたご飯は押し麦と白米の混ざり合ったものでした。※押し麦(麦粒を押し潰して平らにしたもの)
近頃では、麦が混じったご飯は「健康食」と言うのでしょうが、当時はお米は貴重で麦は安値だったから一般に食されていたのです。白米と味の比較をすれば美味しくありません。
また、生活水として蛇口を捻ると水の出る町営の水道施設ができたのは私が小学校3年生の頃だったと思います。それ以前の生活水は、各家に地下水の汲み上げポンプ(人力)がありました。
私は、最初に水道水を飲んだ時のカルキ(消毒薬)の味が嫌いで飲み慣れるまでに時間がかかりました。
今日は、ココまでにします。
次回 Part8: 小学2年におきた出来事_elementary_accident_ をお話します。

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