2008年4月14日月曜日

俺の回想録 ≪Part30:冬の北国訪問≫_Reminiscences_Snowy district_

今日は、私が専門学校_vocational school_の卒業を控えた2年生の冬休みに秋田へ行った時のお話しをします。
私は、学校の秋のテスト休みに一人旅をして、旅先の能登で知り会った2人組の女性達に会いに行ったのです。
私は、学校が冬休みに入る前日、授業が終わりアパートに戻ると静岡の実家へ帰省する準備をしました。
その夜、11時頃に銭湯から部屋に戻ると、秋田の彼女達の事が思い出されたのです。
私が育った静岡では、冬でも殆ど雪は降りません。降っても冬の間に2~3日程で、積もる事は10年に1度有るか?無いか?です。
私は、彼女達が住む「雪国」_snowy district_である秋田へ行ってみたい。学校を卒業して静岡に帰れば2度と秋田へ行く事も無いだろう。また、私は小学4年生の時に家の近くでお母さんと二人で住んでいた友達が秋田へ引越して行った思い出があり、雪国”秋田”を見てみたいと強く思ったのです。
私は、急いで旅行準備をしてJR赤羽駅から23時半頃の京浜東北線に乗ったのです。
その時、私の服装は皮靴を履きスーツにコートを着た姿でした。しかし、この衣装で雪国_snowy district_に行った事が、後で失敗だった事に気付かされたのです。
私が乗った電車は、福島が終着駅でした。
駅のホームに下りて、駅員さんに秋田に行く電車の事を尋ねました。
そして、秋田行きの1番電車は6時半頃だったので、駅ホームの隅にある駅員さんが休憩する小屋で私も休ませて頂いたのです。
朝になり駅が薄明るくなった頃、私の乗った電車は秋田方面に向かって出発したのです。
電車を乗り継いで秋田の横手駅に着いたのは14時頃でした。
私は、突然の訪問に彼女達には迷惑ではないかと心配でしたが、病院に勤務するナースの彼女に電話で、横手駅に来ている事を連絡したのです。
彼女は、夜勤明けで家で休んでいたのですが、驚いて直ぐに駅に迎えに来てくれました。
私と彼女は再会を喜び会い、その後二人で横手市内を見て歩き、建築を学ぶ私に参考になればと彼女が勤務する病院も案内してくれました。
そして、市内の食堂に入って秋田名物の「きりたんぽ」を食べながら色々なお話しをしました。
その時、初めて知ったのですが裁判所に勤務するもう一人の彼女は1月前に結婚をして、今は大館市に住んでいて来られなかったのです。
私達は、食事が終わり店を出た時には辺は暗くなっていました。
そして、彼女の案内で市内のビジネスホテル_budget hotel_に向かい、私達はホテルのロビーで別れたのです。
私は、ホテルに向かって歩きながら”雪国の冬”と”静岡の冬”の違いに驚きました。
静岡の冬は、風が強く吹き寒いのですが、雪国の冬は風は弱いが冷たく、底冷えのする寒さと冷たさでした。
次の日、彼女は仕事で会えませんでした。
私は、1人で街外れにある横手城を観に行き、途中の凍った坂道で滑って転んでしまったのです。
その時、近くにいたお婆さんが心配して私に近づいて来て「怪我は無いかね?アンタさんは何処から来たの?」と聞かれたのです。
私が、「静岡」から来たと言ったら、お婆さんが「私も、静岡から横手へお嫁に来たんだよ」と言って、懐かしそうに若い時のお話しをしました。
また、「雪国_snowy district_では、冬の間みんな滑らないように長靴を履いているのに、皮靴では滑るから注意しないと危ないよ」と言われたのです。
私は、お婆さんと横手城で別れてから街中に戻り、駅から彼女へ「突然来てしまったお詫び、案内してくれたお礼と別れの挨拶」の電話を入れて、横手発16時頃の「東京行き」の電車に乗ったのです。
その時、二度と訪れる事は無いかもしれない土地を離れる事に、私は何故か”切ない気持ち”になったのですが、それは駅のホームで秋田出身の人気歌手の”哀愁を帯びた歌声”が流れていた為かも知れません。
そして、私が東京のアパートに着いた時には夜の10時を過ぎていました。
次の日、私は静岡の実家へ帰り、家族と一緒に正月を迎えたのです。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part31:学生生活の終わり _Student life_として、卒業までの苦しかった学生生活をお話します。

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