2008年3月24日月曜日

俺の回想録 ≪Part13:高校入試≫_Reminiscences_Entrance examination_

私が、中学1年生(1962年)の時は戦後の1次ベビーブームの先輩達が卒業するので近隣の街に公立高校が数多く新設されました。
その年は、ソビエト(現在のロシア)が人工衛星に初めて犬を乗せて打ち上げに成功した年でもありました。
また、最初のカラーテレビができて東京タワーの建物の中に展示されていたのもこの頃だったと覚えています。
中学生になった私や友達は、外国の音楽に興味を持つようになりました。特にポピュラーソングが好きで、当時のラジオ番組「9500万人のポピュラーヒットソング」を夢中になって聞きました。
当時、日本の全人口は9500万人だったのです。そして、1ドル360円の時代でした。
また、私が住んでいた田舎ではバナナは知っていても、実物を見たことも食べたことも無かったのですが、海外で台湾コレラが流行して値が下がり、田舎の私達でも食するようになったのが、たしかこの頃だったと思います。
私は、中学2年、3年と進級して高校受験生の生活が始まりました。当時、私達の高校受験_entrance examination_の試験科目は数学、国語、理科、社会、英語、美術、音楽、保健体育、技術家庭の9教科でした。
私は、中学3年まで自分の将来について考えた事も無く、大人になったらどんな職業に就きたいなどの目標はありませんでした。ですから、試験勉強も特に努力したとは思いません、その時の自分の能力で入れる高校を選択しただけでした。
私の家は、米穀店のため長男は商業高校に進み、次男は普通高校に進んだので、私は父が「お前は、小さい時から工作が好きで手先が器用だから工業にしたらどうだ」の一言で工業高校へ進むことに決めました。
また、家の近くに建設省を退職した方が住んでいました。父は、役所で働く方は偉い人といった考えがあり、私にも役所に就職させたいようでした。
私は、父の言葉にそのまま従い工業高校の建設科を受験しました。結果は「合格」しましたが、自分が受験に一生懸命努力した感じが無かったので「良かった、嬉しい」と言った感動はありませんでした。
私の友達の大石君は、普通高校に合格、松野君は商業高校に合格したのです。
3人は、公立高校なので合格発表の日は同じで、次の日に松野君の家に集まり、私達3人を松野君の義姉と杉山京子さん(初恋の人)が祝ってくれたのです。
私のクラスでは、半数の人が中学を卒業して就職しました。当時、中学を卒業して就職する人は「金の卵」と言われて地元の鉄工場、食品工場など、また東京や名古屋、大阪など大都市へ出て行ったのです。
1965年の春、私は県立工業高校(建設科)に入学しました。_entrance to school_
私の通う高校は、家から18kmほど離れた街にありました。友達の大石君の通う高校も同じ位離れた別の街にありました。
私達は、毎朝一緒に自転車で通学しました。通学路の途中で、それぞれの高校の街に分かれるのです。こうして、2年間彼と一緒に自転車通学をしました。
そして、3年生になって私はある出来事が起こりバス通学に変わりました。
ある出来事とは、次回のブログPart14: 高校生活_high school life_ でお話しします。
今日は、ココまでにします。

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