2008年4月16日水曜日

俺の回想録 ≪Part31:学生生活の終わり≫_Reminiscences_Student life_

いつも、私の回想録を読んでくれて有難う御座います。
今日は、前回に続き私が専門学校_vocational school_を卒業するまでの苦しかった学生生活を思い出しながらお話ししたいと思います。
私は、実家で1977年「正月」を迎えてから、東京に戻り、卒業までの残り3ヶ月の学生生活を始めました。
学校生活_Student life_は、授業と卒業設計の作成がを中心で就職活動_job hunting_もしなければなりません。
私の学校では、卒業設計作品の提出が決められた日時に1分でも遅れると、会場は閉じられて受理されません。そして、卒業ができなくて留年となるので生徒は卒業設計の作成に必死になるのです。
私達の学校では、1クラスの生徒数は入学時に120名ですが、途中で退学する学生もいて卒業時には90名前後になっていました。
3学期初めには、クラスで70%の生徒は就職先が決まっていましたが、私を含む30%は決まっていませんでした。
私は、卒業したら静岡に戻る予定でいたので、静岡からの求人を待っていました。しかし、オイルショックによる不景気が回復しておらず、静岡からの求人は無かったのです。
学校から、過去に卒業生が就職した会社へ問い合わせして頂き、私の就職先が決まったのは卒業式の1週間前でした。
その間、私は先生方から「静岡に戻らないで、本校で教師の補助職員として残らないか?」とか、女性教師の方からも「主人が経営する設計事務所へ紹介するから、そこで働いてみない?」などと言って頂いたのですが、何故か?私は静岡に戻る事しか考えていませんでした。
私の学生生活_student life_も、卒業設計の作成に追われ、日々苦しくなっていました。
卒業設計の途中審査に間に合わせるため、薬屋で”眠くならないアンプル”を購入して徹夜を続けたりしました。
その時、私は知ったのですがアンプルを飲んで一睡もしないで徹夜できるのは2晩が限界でした。3晩目には、紙に書いた文字が浮き上がり空中で舞っている様に見えてくるのです。
当然、頭脳も働かないで計算なども出来なくなるのです。
私の部屋は、昼間でも暗いので24時間照明を点けたままで、コタツも電気を入れたままの状態でした。その時の電気代は、12,000円の請求書が送られて来たのには驚きました。
卒業作品の提出日の1週間前も、この様な殆ど眠らない状態でした。
提出日の朝、徹夜のまま顔も洗わないで駅まで歩いた後、電車に乗って学校近くの駅で降り、駅からまた学校まで歩き、校内の提出会場で作品の提出審査を受けて受理された後も、また同じ道のりをアパートまで帰って来たと思うのですが、私には”提出審査を受けた記憶”が少しだけ残っているだけで、どのようにして学校まで行き、アパートまで帰って来たのか記憶に無いのです。
アパートの部屋に帰ってきたら、私は直ぐに眠ってしまった見たいです。
私が、物音で目を覚ました時は夕方で暗くなっていました。テレビを見たらニュースの日付が違うのに気付いて新聞の日付を確認したら、卒業作品提出の次の日になっていたのです。
そうです、私は学校から帰って直ぐに眠ってしまい、その日の夕方に目を覚ましたと思ったのですが、実際は24時間以上眠ってしまい目が覚めたのは、次の日の夕方だったのです。
その日、私は夕食を済ませて、早めの銭湯に行きゆっくりと入浴しました。
私達は、卒業作品の提出と同時に「卒業休み」に入り、2週間後の卒業式を最後に学校生活は終わったのです。
私は、卒業休みの時に学校から紹介された「静岡にある設計事務所」に就職が決まりました。
卒業式_graduation ceremony_が終えて、実家から兄が迎えに来たトラックに荷物を乗せて、私は静岡へ帰って来たのです。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part32:社会に再出発_fresh start _society_として再就職先でのお話しです。

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