2008年3月29日土曜日

俺の回想録 ≪Part18:社会人1年生≫_Reminiscences_Member_Society_

私は、1968年にの春に工業高校を卒業して18歳で社会人_member _society_になりました。
入社した会社は、創立2年目で設計、測量部、地質調査等の建設関係のコンサルタント業務の会社でした。
私と同じ高校からの田中君は、面接試験において配属部所は「設計部」を希望していました。
しかし、私達は、測量部に配属され、晴れた日は毎日外業で現場測量を行い、雨の日は内業で現場測量結果のまとめ及び製図作業でした。
私達は、進入社員のため毎日のように現場でテープ(巻尺)読みの係りで、現場ではただの人促に過ぎのです。
私は、「これから、社会人とし一生この仕事をしていくのかな~」と考えては、空しい気持ちになり、仕事に魅力を感じられませんでした。さりとて、転職するとなると高校で学んだ事が無駄になると思い、毎日割り切れない気持ちで過ごしていたのです。
親に話しても、「まだ、入社して半年ではないか、仕事を憶えて上司から仕事を任されるようになれば仕事が面白くなるから」と言われましたが、私には理解できませんでした。
そんな時でした、会社が大きく飛躍できるか、どうか?の社運を懸けた大仕事を会社が受注したのです。そして、社内でプロジェクトチームが組織され、会社の全部所から人選されたのです。そして、測量部からは私が任命されたのです。
プロジェクトチームは○○・・設計部としてスタートしました。
私は、希望する「設計部」に移動できてからは、充実した毎日を送れるようになりました。
設計部員になった時、外部から役所を途中退職されて入社して来た「松本さん」と言う29歳の方が、私達チームの課長になったのです。
私と松本さんは、家へ帰る方向が同じだったので一緒の電車で通勤するようになりました。
ある時、「青島君、私達のような技術仕事は、より高度な知識と学力が要求されるから、これからは大学卒の時代になる」と松本さんが言いました。
私も、仕事を通じて高校で学んだ以上の学識を身に付けたいと思う時があり、もう一度勉強して大学へ進もうかと考えた事もありました。
しかし、日々仕事が面白くなり、自分の人生はこのままでも良いと満足する気持ちになったりもして、進学の決断が出来無いまま年月が過ぎていきました。
私は、設計部員になってある事に気付きました。それは、私だけかも知れませんが「自分の仕事が面白くて充実している時は、遊びもより楽しく感じられる」しかし、「仕事が面白くなくて充実して無い時は、遊びも楽しく無い」と思えるのです。
以上が、私が社会人1年生になり自分の「仕事と将来」に疑問と迷いを抱き、そして方向が与えられ少しずつ社会人_Member_Society_として歩み始めた頃の話です。
今日は、ココまでとします。
次回のブログは、Part19: 新米社員の青春_newface_Youth_ のお話しです。

2008年3月28日金曜日

俺の回想録 ≪Part17:高校卒業まで≫_Reminiscences_High school_Graduation_

私の高校生活は、専門高校_senior high school_のため授業が一般科目と専門科目があり、専門科目の実習と課題に忙しい毎日でした。
それでも、3年生になると私はバス通学にしたので楽しい事もありました。
それは、以前このブログでも紹介しました初恋の人である杉山京子さんが、私のバス通学に合わせて通学途中のJR駅から電車通学するようにしたのです。
私が、自転車通学の時は月に一度会える程度でしたが、バスになってからは毎日朝は一緒で、帰りもお互いどちらかが駅で待ち、一緒のバスで帰りました。時には、校則では禁止されていましたが二人で駅前の喫茶店に入った事もありました。
私が高校2年の秋、まだ自転車通学をしていたのですが、私は高校でクラブ活動は写真部に所属していて「文化祭の準備」をしていたある日、私達のクラブ室に彼女が来たのです。
私は、彼女から何も聞いて無かったので驚きました。
私の学校の写真部では、文化祭に近隣の高校の写真部の作品を募集していたのです。
私は、彼女から高校のクラブ活動は何部なのか聞いて無かったので驚きました。偶然にも、彼女も私と同じ女子高の写真部だったのです。そして、部員の作品を届けに来てくれたのでした。
その時、私も彼女も周囲の部員の前ではお互い知らない同士を装い、彼女は作品を置いて帰りました。
彼女が帰った後に、部員達の中には彼女のうわさをして騒ぐ者もいて、部長は文化祭の招待状を彼女へ出そうと言い出した事を今でも覚えています。
私が、彼女を送って学校の玄関ロビーで別れたのですが、彼女も同じ写真部の偶然に驚いていました。
文化祭の当日、彼女は私の学校に来たのですが、部長が彼女を案内して学校内を回っていました。
私は、他校の女子の案内で「京子さん」とは会話もできないまま、文化祭は終わりました。
数日後、彼女の学校から私達写真部へ文化祭の招待状が届いたのですが、文化祭へは部長を含む3年生5人が代表として行く事に決まったのです。
私は、彼女から「女子高の文化祭は、見に来るのは女子学生がいつも多くて、男子学生は少ないので、貴方にも着て欲しい」と言われたのですが、部長達が行くので代表でない私が行って、彼等に会うと困るので行かない事にしました。
そして後日、彼女と会った時はお互い文化祭に関して少し物足りない気持ちだったのです。
私達は、3年生になると少しずつ就職活動が始まりました。早い人では、夏休み前に就職先が決まる者も出てきます。
当時は、みんな民間企業へ希望して、公務員などの役人を希望する人は少なかった時代でした。
私の父は、私が公務員になるのが希望のようでしたが、私は民間企業を選びました。
私は、先生から当時は新業種として将来性が有望視されていたコンサルタント業の会社を進められました。私は、その会社の入社試験を経て、秋には採用が決まりました。
この会社には、同じクラスの田中君も私と一緒に就職する事になったのです。
私達の高校は、3年生になると就職のために「自動車の運転免許証」を取得するように自動車教習所に通う事が許されるのです。
自動車教習所は、高校の近くにあり、田中君の家も学校の近くだったので、彼と一緒に私もこの教習所へ通いました。運転実習は、朝早く教習所へ行って予約シールを貼らなければなりませんでしたが、家が遠い私の為に、いつも彼が私のシールも貼ってくれていました。
私が、運転免許証を取得できたのは彼のおかげだったと、今でも思っています。
私達は、就職先が決まると髪を伸ばし始めて、1968年3月に高校を卒業しました。_Highschool_Graduation_会社へは、4月始めから入社勤務の予定になっていたのですが、3月始めの終業式が終わると、直ぐに会社からアルバイト要請を受け出勤する事になったのです。
高校3年の冬休みの時も、会社からアルバイト要請を受け、私と田中君はアルバイトに行ってるので、入社前のこの要請に私は不満でした。
社会人になる前に、私なりに色々とやりたい事や、考えたい事などが有ったのです。
私は、父から「会社は、早く仕事を憶えてほしいので言って来てるのだから、会社の要請に応えておいた方が良い」と言われ、不満ながら出社しました。
今日は、ココまでとします。
次回のブログは、Part18: 社会人1年生_member_society_ でのお話しです。

2008年3月27日木曜日

俺の回想録 ≪Part16:サイクリングでの失敗≫_Reminiscences_Cycling_Failure_

今日は、昨日のブログの話しの続きをお話しします。
私達3人は、サイクリング_cycling_の最初の夜は西伊豆海岸の小さな漁村の青年団の人にすすめられ公会堂に一泊させて頂く事になったのです。
夜遅く、一緒だった青年団の方々が家に帰ったあと、私達は畳の上に借りた毛布に包まって眠りについたのですが、少し興奮気味ですぐには眠れませんでした。また、暑い夜のため蚊も多くいました。
私達は、家を出る時に野宿も覚悟して蚊取線香を持って来ていたので焚いて寝ました。
次の朝、早く起きた高橋君が「あ・あ・あ~」と叫んだのです。_failure_
その声で、私と大場君も目を覚まし「何だよ?朝早くから」と言って高橋君が指差す先を見てビックリしたのです。
そこには、畳にクッキリと蚊取線香の渦巻きの形で焦げた痕が着いていたのです。
私達は一瞬で目が覚めてしまいました。「どうしよう?」と高橋君は言いました。3人で色々相談した結果、私達は持ち金を全部出して謝る事にしたのです。
しばらくして、昨夜の青年団の人が「お~い、起きてるか?」と言って入ってきました。
私達3人は、畳を焦がしてしまった事を詫びて3人で出し合ったお金を渡そうとしたら、「あ~、そんな事は気にするな!俺達青年団が酒に酔って焦がした事にすれば済むから」と言ってお金を受取りませんでした。
そして、「さあ、朝飯を食え」と言って、おむすびを出してくれたのですが、私達は悪い気がして朝飯を食べずに出発しました。
青年団の人は、「この先からは、山道だから大変だからよ、気をつけて行け」と言って手を振って分かれたのです。
300mほど走って村を抜けた所から、先は急勾配の山道になっていました。
そこから先は、私達は自転車を降りて押して歩きだしました。歩いては休み、歩いては休みの連続です。あのカーブを曲がれば自転車に乗って走れるのではないかと思い、幾つものカーブを曲がりましたが、結局3時間以上ずっと自転車を押して歩いていました。
そして、伊豆で最も高いと思われた達磨山峠に着いたのです。
私は、この調子だと自転車での「伊豆一周」は無理ではないかと思い、2人と相談しました。結果、計画を変更して修善寺を経由して沼津に向かう事にしたのです。
これは、Uターンして理路を走る事になるのです。達磨山峠から修善寺までは下りの山道だったので、私達は自転車に乗って殆どペダルを扱がずに走りました。
沼津の街に着いた時は、すでに周囲は暗くなっていました。
途中、夕食のため道端の小さなラーメン屋さんに入りました。3人とも空腹でラーメンの大盛りを注文して、汁まで残さず食べてしまいました。
食べ終わった時、高橋君が「汁が残ってないとカッコ悪くないか?」と言ったので、テーブルにあった醤油と水をそれぞれの丼に少し入れて偽装したのを今でも覚えています。
私達は、ラーメンを食べながら、その夜の泊まる所の相談をしました。その結果、千本松原の海岸で野宿する事に決めました。
ラーメン屋さんを出てから、30分程走って私達は千本松原に着きました。
海岸防潮堤を背にして、各人砂浜にテント代わりのこうもり傘をさして、その中で寝ようとしていた時、防潮堤の上を遠くからパトカーが近づいてきたのです。私達3人は、「どうしよう?」補導されるのではないかと怯える気持ちだったのです。
パトカーは私達の近くで停止して、窓から懐中電灯の光を私達に向けたのです。そして、私達に近づいて来て「君達は何処から来たの?」と尋ねられたのです。
私達は、「夏休みで、サイクリングに来てココでキャンプしているのです」と言ったら、私達の香取線香の煙を見て「火気に注意しなさいよ」とだけ言って、パトカーに戻って私達の所から去って行ったのです。
ホットした気もちで寝たのですが、一晩中蚊に襲われて3人とも殆ど眠れませんでした。
朝の光が非常に眩しくて、目が痛いように感じたのを覚えています。
朝になって周囲を見回したら、松林の向こうに昨夜気付か無かった公園を見つけたのです。
私達3人は、その公園のトイレの手洗い場で顔を洗った後、千本松原を出発したのです。西に向かって帰路を走りました。
1時間ほど走った時、先頭を走っていた大場君の後輪タイヤがパンクしてしまい、そこから3人は自転車屋さんを探して、それぞれの自転車を押しながら4kmほど歩いたのです。
自転車屋さんを見つけてパンクの修理に30分ほどかかり、再び帰路を走りました。
パンクが直り、走り始めた私達は急に空腹を感じて、まだ朝飯を食べていなかった事に気付いたのです。すぐに、近くの食堂を見つけて少し早い昼食を取ることにしました。
私達は、残金を確認して「カツどん」と「カレーライス」のどちらを注文しようか迷いました。今に思うと、それぞれ好きな物を注文すれば良いのに、その時は何故か?3人同じ物を食べる気持ちになっていたのです。
食堂を出てから、2時間半ほどして2日前に自動車の排気ガスで苦しい思いをした宇津ノ谷トンネルまで帰って来たのです。
私達3人は、トンネルの入口で少し休ん後、手ぬぐいを目の下で巻き口を覆った姿でトンネルに入りました。力の限り自転車のペダルを扱いでトンネルを抜けました。
トンネルを過ぎて1時間ほどで大井川の堤に着きました。私達は、その場所で別れてそれぞれの家に帰ったのです。
そして、このサイクリングでの出来事_cycling_failure_が私達3人の夏休みの思い出となったのです。
今日は、ココまでとします。
次回のブログPart17: 高校卒業_graduation_までをお話しします。

2008年3月26日水曜日

俺の回想録 ≪Part15:思い出のサイクリング≫_Reminiscences_Memory_Cycling_

今日は、私が高校時代に経験した中で最も記憶に残っているサイクリング_memory_cycling_のお話しをします。
私には、高校生になってクラスの中で特に仲の良かった友達が2人いました。
一人は「大場君」と言い、彼は私と同じ中学校の出身でしたが、中学時代はお互い顔は知ってはいましたが、クラスが異なり、お互い話もした事が無く親しくなかったのです。
しかし、高校生になって同じクラス、同じ中学校、お互い自転車通学なので、朝は別々の登校でしたが帰りはいつも一緒に帰る仲だったのです。
そして、もう一人が「高橋君」です。彼は隣町の中学校の出身で、やはり自転車通学でした。
私達の高校では、体育の時間に柔道を習う時間が設けられていました。ある日、体育の時に私の練習相手が彼になったのです。彼は、中学生の時から柔道を習っていて、私より背が低いのですが、彼におもいっきり投げられたのです。
彼は、「手加減もしないで本気に投げてしまって済まん」と言って、私に詫びたのです。
それからは、何故か?練習で彼と組むのが多くなったのです。私は、彼から技のかけ方を習いました。 そして、彼が時々日曜日に私の家に遊びに来るようになり、私も彼の家に行ったりする仲になったのです。
私は、特に自転車が好きと言うわけではないのですが、あれは高校2年の夏休みのことでした。
私と、大場君と高橋君の3人が集まった時に、大場君が「夏休みの思い出に3人でサイクリングに行かないか?」と提案したのです。私は「いいね、いいね~」、高橋君「行こう、行こう」となって、サイクリングに行く事になったのです。
行き先は、「伊豆一週を2泊3日で走破」、「予算は一人2,000円」、「宿泊はテントが無いのでお寺かどこかに泊めてもらう」、「出発は3日後の朝9時に大場君の家に集合」、という事に決まったのです。
大人になった今、思えば何とムチャな計画ですが、その時の私達はできると簡単に考えて行動したのです。 _cycling_
出発の朝、高橋君が15分遅れて来たので、9時15分に出発しました。
私達3人は、国道の端を縦に一列となって走りました。出発して、40分後に第一の難関である宇津ノ谷トンネル(全長500m程)に入ったのですが、中は自動車の排気ガスが充満していて、真ん中付近に来た時には息ができない程で、気が遠くなる様な感じになりました。
どうにか、3人がトンネルを抜け出た所で一息付いたのですが、みんなの顔に黒いススが汗で流れていたのを覚えています。
その後は、トンネルも無く順調に走りました。走っていると、対向して来る同じサイクリングの人達が私達に手を上げるのです。
私達は、長距離のサイクリングは初めてで何も知らなかったのです。「何だろう?」と疑問に思って走りました。
そして途中、冨士川を過ぎた所のお店で小休止して、当時飲み物のコーラが出始めた時で、私達はその場所で初めてコーラを飲みました。
私達3人の初めてコーラを飲んだ感想は、大場君「ウメ~大人の味だ」、高橋君「何か複雑な味だな~」、そして私は「薬臭い味だ、サイダーの方が好きだな」でした。
私達が休憩していると、次々に人が店にやって来ました。その中には、サイクリングの人などもいて、一人の方が「君達もサイクリングか?」と聞いてきたのです。
私は、「そうです」と答えて、その方に聞いてみました「私達が走っていると、対向して来るサイクリングの人は、みな私達に手を上げてくれるのはなぜですか?」答えは、「それはサイクリングのマナーで頑張っている相手への挨拶と励ましなんだよ」と教えてくれました。
私達は、休憩を終わりにして出発しました。
休憩後は、対向して来るサイクリングの人へ、先ほど覚えた手を上げる挨拶をしながらペダルも軽く順調に進みました。
その日、午後3時半頃には伊豆西海岸の「立保」と言う漁村に着いたのです。走行距離は80km程になります。
私達は、村の入口に立っている火の見櫓の下で休んでいると、地元の青年団の人が近づいて来て、私達に「君らは何処から来たんや?、サイクリングか?」と聞かれ、私達はそれぞれの住所とサイクリングの予定を話しました。
そしたら、「この先は、海岸沿いの山道で民家も無いから、途中で夜になってしまうぞ。君らは、今夜の寝泊りする場所はあるのか?」と言われ、私達3人は「今日は、ココの海岸で野宿して、明日の朝ココから出発しようか?」と相談をしていたら、「今夜、青年団が公会堂に集まるから公会堂に泊めてやるョ」と言ってくれたのです。
私達は、この言葉に甘えて公会堂に泊めて頂く事にしました。夜になるまで海岸を散歩したりして時を過ごし、夜に公会堂に行ったのです。
青年団の方達は、7人でスルメを齧りながら酒を飲んだり歌ったりしていました。
私達が入っていくと、「さあ、上がれ上がれ」と言ってくれて、みんなの端に「おむすび」まで用意してくれてありました。
その夜に、私達は大失敗を犯してしまったのです。
今日は、ココまでにします。
この続きは、次回のブログPart16: サイクリングでの失敗_cycling_Failure_ をお話しします。

2008年3月25日火曜日

俺の回想録 ≪Part14:高校生活≫ _Reminiscences_High school life_

私が、入学した高校は新設校で、私達1年生は第3期生になります。
学校は、体育館はありましたが、プールは建設途中でした。また、広い運動場も有りましたが周辺には植樹中で土などが盛られており、運動場には小石が沢山散乱しており、私達は体育の時間にいつも30分ほど石拾いをさせられました。
校則も、新設校であるということで特に厳しく、男子生徒は坊主頭で黒の制服、制帽、靴は白いズック靴で皮靴は3年の3学期からとなっていたのです。
また、喫茶店に入るには父兄同伴でなくてはいけなかったのです。
私が、1年生の時3年生の先輩から「本校の学生の姿は、修学旅行に行ったら旅館の人に中学生に思われた」と言ってました。
私は、新設校ではない他校の生徒の長髪で皮の靴を履いた姿を見るとカッコイ~ナと羨ましかったです。
私が、高校生になったのを実感できたのは、勉強内容はもちろんですが、授業の筆記がテスト以外は万年筆でした。また身に付けている腕時計、教科書を入れた皮製の下げ鞄などでした。しかし、1人の学生の姿として見るとアンバランスでカッコ悪いと思いました。
私の学校では、近隣の高校に無い行事がありました。それは、冬になると「耐寒訓練」といって1週間朝7時までに登校して、上半身裸になり下は短パンでラジオ体操を行い、その後、学校の周辺を3km走るのです。そして、最後の日はマラソン大会となり10kmの距離を競走するのです。
私は、1年生で最初のマラソン大会の時でした、スタートして4km位の地点で最も息が苦しくなりました、しかし休まず走り続けると急に苦しみが無くなり楽に走れていたのです。ですが、私の足の感覚が無くなっていったのです。正確には足の平の感覚が無くなり足の先が棒の先で立って走っている様な感じでした。
私は、どうにか完走してゴールしたのですが、ゴールしてグランドの端に座ったら後は、動けませんでした。私の足が大きく腫上ってしまったのを見た友達が先生を呼んで来て、そのまま接骨医に連れて行かれました。
そして夕方まで休んでから、湿布薬と包帯で膨らんだ足を引きずり学校近くのバス亭からバスで家に帰ったのです。
次の朝は、まだ足の腫れも痛みもひかない為靴が履けなかったので下駄を履いて学校に行ったのです。その日の帰りのバスで、途中の乗換所でバスを待っていたら、2人組の3年生が私に近づいて来て「お前のそのカッコウは何だ!」と言って私の胸を掴み、睨みつけられ「1年生のくせに、そのカッコウは生意気だ」と言われ、私は事情を説明しました。
その時、説明しても分からず殴られたら、私は下駄で殴り返してやるつもりでいたのですが、先輩達は「分かった、気おつけて帰れよ」と言ってくれて「また、誰かに俺達のように言われたら、俺達の名前を言え」と言って2人の名前を教えてくれたのです。
次の日、学校でクラスの友達に2人の名前を聞いたら「青島君、その2人の先輩は本校の番長と副番長で建設科の先輩だよ」と教えてくれました。それを聞いた時、私はビックリしました。そして、なぜか3年生が大人に見えて恐ろしい存在に思えたのです。
私は、いつも自転車で通学していたので知りませんでしたが、バス通学の生徒達には我が校のマナーがあって、①先輩には席をゆずる事②年寄りには先輩より先に席をゆずる事③車内では静かに話す事 この3つは厳守になっていて、3年生が下級生の車内でのマナーをチェックしているのです。
私は、2年生の時まで自転車通学でしたが、雨の日だけバスを利用していました。
6月の梅雨の時期はバスの日が多くなりました。梅雨ですから午後になると晴れて、帰りのバスの中は蒸し暑く感じました。
当時のバスには、運転手の男性と一緒に若い女性のバスガールが乗っていて、バスの乗降口に立って切符を切ってくれてました。
梅雨時は、バスガールの服装が白いブラウスと紺のスカートでした。私達、高校生は丁度思春期だったからでしょうか?バスガールのブラウスに下着が透けて見えている事に興奮して、股間がムズムズしてズボンが突っ張りました。恥ずかしいので鞄を膝の上に載せてそれを隠し、バスから降りる時は困ったものでした。
当時の田舎では、ミニスカートはまだ見られなかったです。私が、膝までのミニスカートの人を最初に見たのは、高校の修学旅行で彦根城を見学している時でした。高校生活_high school life_は、進級するごとに勉強、クラブ活動、宿題(課題)等に追われ忙しくなりました。
今日は、ココまでとします。
次回のブログPart15: ???? これから考えて、明日お話しします。

2008年3月24日月曜日

俺の回想録 ≪Part13:高校入試≫_Reminiscences_Entrance examination_

私が、中学1年生(1962年)の時は戦後の1次ベビーブームの先輩達が卒業するので近隣の街に公立高校が数多く新設されました。
その年は、ソビエト(現在のロシア)が人工衛星に初めて犬を乗せて打ち上げに成功した年でもありました。
また、最初のカラーテレビができて東京タワーの建物の中に展示されていたのもこの頃だったと覚えています。
中学生になった私や友達は、外国の音楽に興味を持つようになりました。特にポピュラーソングが好きで、当時のラジオ番組「9500万人のポピュラーヒットソング」を夢中になって聞きました。
当時、日本の全人口は9500万人だったのです。そして、1ドル360円の時代でした。
また、私が住んでいた田舎ではバナナは知っていても、実物を見たことも食べたことも無かったのですが、海外で台湾コレラが流行して値が下がり、田舎の私達でも食するようになったのが、たしかこの頃だったと思います。
私は、中学2年、3年と進級して高校受験生の生活が始まりました。当時、私達の高校受験_entrance examination_の試験科目は数学、国語、理科、社会、英語、美術、音楽、保健体育、技術家庭の9教科でした。
私は、中学3年まで自分の将来について考えた事も無く、大人になったらどんな職業に就きたいなどの目標はありませんでした。ですから、試験勉強も特に努力したとは思いません、その時の自分の能力で入れる高校を選択しただけでした。
私の家は、米穀店のため長男は商業高校に進み、次男は普通高校に進んだので、私は父が「お前は、小さい時から工作が好きで手先が器用だから工業にしたらどうだ」の一言で工業高校へ進むことに決めました。
また、家の近くに建設省を退職した方が住んでいました。父は、役所で働く方は偉い人といった考えがあり、私にも役所に就職させたいようでした。
私は、父の言葉にそのまま従い工業高校の建設科を受験しました。結果は「合格」しましたが、自分が受験に一生懸命努力した感じが無かったので「良かった、嬉しい」と言った感動はありませんでした。
私の友達の大石君は、普通高校に合格、松野君は商業高校に合格したのです。
3人は、公立高校なので合格発表の日は同じで、次の日に松野君の家に集まり、私達3人を松野君の義姉と杉山京子さん(初恋の人)が祝ってくれたのです。
私のクラスでは、半数の人が中学を卒業して就職しました。当時、中学を卒業して就職する人は「金の卵」と言われて地元の鉄工場、食品工場など、また東京や名古屋、大阪など大都市へ出て行ったのです。
1965年の春、私は県立工業高校(建設科)に入学しました。_entrance to school_
私の通う高校は、家から18kmほど離れた街にありました。友達の大石君の通う高校も同じ位離れた別の街にありました。
私達は、毎朝一緒に自転車で通学しました。通学路の途中で、それぞれの高校の街に分かれるのです。こうして、2年間彼と一緒に自転車通学をしました。
そして、3年生になって私はある出来事が起こりバス通学に変わりました。
ある出来事とは、次回のブログPart14: 高校生活_high school life_ でお話しします。
今日は、ココまでにします。

2008年3月23日日曜日

俺の回想録 ≪Part12:初恋(再会)≫_Reminiscences_Reencounter_

今日も、昨日のブログ「私の初恋」_First love_の続きをお話をします。
私は、地元の中学校に入学しました。
私が、住んでいた町には小学校が東小学校、西・・・、南小学校の3校有りました。
中学校は、1校でそれぞれの小学校の生徒が集まる中学でした。全生徒数が1,500人弱で、私達1年生は440人で11クラスありました。
私が、中学校に入学した時は全生徒が戦後のベビーブームで生まれた子供だったので生徒数が最も多かったのです。
中学に入学して、2週間ほどで自分のクラスにも慣れましたが、別の中学校へ行った彼女のことが忘れられませんでした。
入学当初は、彼女の夢を毎日のように見ました。しかし、小学校とは生活環境が異なり、半年過ぎた頃から彼女の存在が薄らいでいきました。夢に彼女が出てくるのが1週間に1度、2週間に1度、1ヶ月に1度、2ヶ月に1度、・・・・・・となりました。
私には、小学校6年間中に4年間クラスが同じだった「大石君」と言う、仲の良い友達がいます。大人になった今でも時々連絡を取り合っては酒を飲みます。
私が、中学2年になったある日、隣のクラスだった大石君が私のところに来て「青島君、今日一緒に帰らないか?話があるんだ」と言って来ました。
放課後、私は彼のクラスへ行き「大石君、帰ろうか」と誘ったら、彼の側に松野君が居ました。
松野君も南小学校からの生徒ですが、私はクラスが一緒になった事が無いので顔は見知っていたが、付き合いは有りませんでした。
その日、私達3人は一緒に帰りました。
途中で、大石君に「話があるって言ってたけど、何?」と聞いたら、大石君が「最近、この松野君のお兄さんが、日本舞踊の先生と結婚したんだって、それで君と仲が良かった杉山京子さんは、その義姉のお弟子さんで、松野君の家に踊りを習いに時々来るそうだよ」と言いました。
そして、松野君が私に「義姉さんから聞いたんだけど、京子さんは小学校の時に好きな男子がいて、それが君なんだ、義姉に君のことを色々聞かれたよ」と言いました。
そして、「今度の日曜日、大石君と一緒に俺の家に遊びに来ないか?そして、義姉さんに会ってくれないか」と言われました。
私は、忘れかけていた人を急に思い出して、「そうなんだ、彼女も僕と同じ気持ちでいたんだ」と思い、みるみる胸の中で嬉しさと会いたい気持ちが膨らみました。
その日から、当日の彼の家に着くまで、私は松野君の義姉に何を聞かれるのか、その事ばかり考えていました。
そして当日、大石君を誘い2人で松野君の家へ自転車に乗って行きました。
彼の家に着いて、松野君は「義姉夫婦の部屋は2階だから、上に行こう」と言って、私達2人を案内してくれました。
2階の義姉夫婦の部屋に入った時、そこに松野君の「義姉」と「杉山京子」さんの2人がコタツに入って座っていました。 私は、彼女とそこで再会_reencounter_したのです。
私達は、その部屋で4人でトランプをしながら、それぞれの近況を話したりして3時間程楽しく過ごしました。
そして、今度いつ会えるのだろうか?約束の無いまま、私は大石君と2人で家に帰ったのです。
その日以来、私と大石君と松野君の3人での付き合いが、大人になった今でも続いているのです。
私は、彼女と再会してからは月に1・2回松野君から連絡があると、彼の家で彼女と会うだけの交際でした。
中学3年になると、クラスの仲間は高校進学組と就職組にそれぞれ進む道が分かれてきました。
私が卒業した中学校は、現在では高校への進学率はほぼ100%ですが、当時は50%程で半分近くの人は中学から就職の道に進みました。
私は、勉強が好きでは無かったのですが、上の兄達2人も進学したので自然と進学組でした。そして、高校入試の勉強など学校生活が忙しくなり、と言うのは嘘です。それも有りましたが田舎だったので周囲の目もあり、受験生は家から出て遊ぶ事ができない雰囲気もあったのです。
ですから、自然と彼女と会う事も少なくなりました。
今日のブログ、ココまでにします。
続きは、次回 Part13: 高校入試_entrance examination_ をお話します。

2008年3月22日土曜日

俺の回想録 ≪Part11:初恋(出会いと別れ)≫_Reminiscences_Encounter_Parting_

みなさんは、思い出すと会いたくて胸がギュウーと締め付けられ痛みを感じる思いをした事がありますか?私にはあります。それは、私が中学2年生の時、学校から家に帰る途中で起きたのです。
そうです、初恋の人を思い出した時になったのです。
今日は、その初恋の話しをしたいと思います。
私が、彼女の存在を知ったのは小学校3年生の時でした。下校の掃除中に私の隣クラスにいる可愛い子を見つけたのです。_Encounter_
私は、すぐに掃除中の友達に「あの子は、何て名前の子?」と聞きました。すると、友達は「お前知らないのか?あの子は杉山京子といって、幼稚園の園長さんちの子だよ」と教えてくれました。
私は、その幼稚園の最初の卒業生でしたが、幼稚園では彼女のことは知りませんでした。
友達に「幼稚園の時、あの子は居なかったよ」と言ったら、「あの子はバスで遠くの幼稚園に行ってたみたいだよ」と言いました。
私は、その時は「そうなんだ」と納得しただけでした。
彼女のお父さんは農協の役員で、また幼稚園の園長さんでもあり、地元では有力者で、私の母なども一目置いて高く見ていた家だったのです。
私には幼稚園の園長さんである、彼女のお父さんは小学校にも時々来る時があり、校内で私と会うと「ショウゾウ君元気かね、勉強は楽しいかね、お母さんも元気ですか」等と、いつも声をかけてくれました。
私が、彼女を強く意識し始めたのは小学校5年生の時でした。
私と彼女は同じクラスになったのです。
それ以前は、彼女は小さい時から日本舞踊を習っていて、小学校の学芸会ではみんなの前で踊りを見せてくれたりして高嶺の花でした。その時、あこがれの様な気持ちになってもクラスが異なり、私の中には彼女の存在が殆ど無かったのです。
しかし、ある日彼女のお父さんが学校に来た時、お父さんと彼女と私の3人が偶然校庭で出会ったのです。そして、お父さんが私に彼女が娘で、私が幼稚園の卒園児代表だったことを彼女に話したのです。その時から、私は彼女を強く意識するようになったのです。
これは、後で彼女から聞いたのですが、お父さんから「幼稚園で、泥団子を投げて遊んでいたワンパク園児の貴方の話しは、以前から聞かされていた」そうです。
それからは、私の小学5年の学校生活が毎日楽しくなりました。
そして、私達は小学6年に進級しました。
6年生のクラスは、担任の先生もクラスの仲間も変わらないで5年生の時のままでした。私は、内心で「やった~、また1年間彼女と一緒だ」と叫んでいました。
私達の小学校では、この年(1962年)から学校給食が始まりました。給食は、アルミ製のトレーと食器にコッペパンと脱脂粉乳と日替わりのおかずの3品が盛られていました。
私達男子は、給食を残さずみんな食べても足りない気持ちでしたが、なぜか?女子の人は全員コッペパンを半分ぐらい残していたのを覚えています。
また、6年生になると「週番」と言って各クラスから男女一人づつ集まって、一週間毎日朝と帰りに学校内を巡回して校内風紀を見て記録する役目が始まるのです。
先生から、この週番の組み合わせ表が配られた時、私は自分の幸運に驚きました。そこには、偶然にも6年5組の私の名前の横に彼女の名前があったのです。そして全クラスメンバーの週番長になっていたのです。
この外にも、6年生の学校生活で彼女との思い出は沢山ありますがブログに書くと限が無いのでこれ位にします。
そして、小学校の卒業近くになりました。私達6年生の殆どは、地元の中学校に入学したのですが、彼女は通学にバスと電車で1時間ほど離れた町の「女子中学」に入学したのです。
私は、中学生になっても彼女が私の身近に居てくれるものだと勝手に思っていたのです。
放課後、週番の会議室で彼女から女子中学への入学を聞いた時は、頭の中が真っ白になりました。
何を言ったら良いのか分からず、ただ「そうなんだ」と言ったきりで、沈黙したまま二人で下校したのです。彼女の家は、小学校から歩いて5・6分と近いのですが、私の家までは20分以上かかります。
私は、あの日二人で学校を出た迄は覚えているのですが、どこで彼女と別れて、どの道を通って家に帰ったのか、今でも思い出せません。記憶が無いのです。
そして、私は卒業式を最後に彼女と会うことも無く離れてしまったのです。 _Parting_
今日のブログは、ココまでにします。少し話が長くなってしまい申し訳ありませんでした。
この続きは、次回 Part12: 私の初恋(再会)_reopening_ でお話しします。

2008年3月21日金曜日

俺の回想録 ≪Part10:我が家にテレビが来た≫_Reminiscences_TV_house came_

私達が幼い頃は、田舎の家庭での娯楽と言えば①ラジオを聴くこと ②年に1度のお祭りと祭りの時に来る旅役者の芝居を見ること ③役場の人が年に1・2回町の公会堂で上映する映画の鑑賞 ④学校行事である運動会・学芸会 などでした。
テレビが田舎の家庭で購入し始めたのは1960年前後の頃で、田舎でも裕福な家にしかありませんでした。ですから、私も小学3・4年生頃は友達と近所の「テレビのある家」へ夕方になると「テレビを見せてください」と言ってその家の人達と一緒に見せてもらっていました。
当時のテレビ番組は、<NHK>と<NHK教育>と<民間放送>の3局だけで、画面は14インチの白黒でした。スイッチを入れ、しばらくすると画面が映りました。また、スイッチを切ると画面中央に光の点がしばらく残っていました。
子供番組は少なかったけど、みんなテレビが自分の家に有ったら良いな~と思っていました。
私達は、学校に居る時もよくテレビ番組を友達と夢中になって話し、友達が見れ無かった番組を自分が見た場合にはチョット自慢気になったものです。
私は、よく父にテレビを買って欲しいとねだりました。しかし、父は毎回「テレビは高価だからだめだ」でした。ある日、母が「あそこの駄菓子を売っているゲタ屋さんが、テレビを買ったら子供たちのお菓子が売れるようになったと聞いたけど」と父に言いました。でも、だめでした。
母は、父が「買って良し」と言えば買ってくれそうでした。
それから数日過ぎたある日、我が家にテレビの購入チャンスがやってきたのです。
私の父は、お酒も、タバコも嗜みますが量は多くはありません。お酒を飲んだ時は、賑やかでキマエの良い人になってしまうのです。
その日、夜遅く父は近くの家の結婚式から酒に酔って帰宅したのです。
母と私達兄弟4人は寝ないで父を待っていました。それは、母から夕食の時「今日、お父さんは酔って帰って来るからお願いしたらテレビを買ってくれるかもしれないよ」と言われたからです。
夜10時頃、母の言ったとおり父は酒に酔って帰ってきました。そして、私達兄弟は父にテレビを買ってくれるようお願いしました。父は、「分かった分かった」と言って電話で電気屋さんにテレビを注文してくれたのです。
その夜は、私も兄達も嬉しくて眠れませんでした。
そして次の朝、父はいつものように店で仕事をしていると、1台のダンボールの箱を積んだトラックが店の前で止まりました。運転席からニコニコ微笑みながら電気屋さんが降りて父にテレビの注文のお礼を言い始めると、父はビックリして「私は注文などしていない」と言い出したのです。
しかし、もうテレビは配達して来ているのです。父は、母から昨夜の説明を聞いてシブシブ承諾したのです。そして、ついに我が家にテレビが来たのです。 _TV_house came_
次の日から、夕方になると家の近所の大人達と子供達(私の遊び仲間等)が我が家にテレビを見に来るようになりました。我が家の6帖の居間は、まるで小さな映画館のようでした。
私は、その時チョット自慢気になった事を覚えています。
今日の話は、ココまでとします。
次回は、Part11: 私の初恋_First love_ をお話します。

2008年3月20日木曜日

俺の回想録 ≪Part9:友との出会いと別れ≫_Reminiscences_Encounter_Parting_

今日は、私が小学校時代に会った大勢の友達の中で、今でも忘れない友との事を紹介します。
最初の友は、私が小学校に入学する半年前に隣家へ東京から親戚の子供がお母さんと一緒にやって来て、その子は隣家に預けられたのです。_encounter_
彼は、私と同じ年齢だった事から直ぐに友達になり 「ショウちゃん」「ヒロちゃん」 と呼び合う仲になりました。彼のお父さんは、戦争で亡くなり、お母さんと彼と弟の3人家族でしたが、弟は他の裕福な親戚の養子になり、彼は隣家に預けられたのです。
隣家には、当時小学校6年生と1年生と3歳の3人の子供がおりました。そこに彼が加わったのです。
隣家のお母さんは、畑仕事の他に毎日バトミントンの網の縁にミシンでテープを縫い付ける内職をしていたのを覚えています。
私とヒロちゃんは、同じ小学校に入学して毎日一緒に通学していました。
彼は、時々家の外で泣いている時がありました。私の母が泣いている「ヒロちゃん」に「どうしたの」と理由を聞いたら「ぼくがご飯を沢山食べるので叱られる」と彼は言ったそうです。
私の家は、お米店ですが駄菓子も売っていたので、母は時々「ヒロちゃん」が泣いていると、おにぎりとかお菓子を隣家に内緒で与えていました。
今、私は大人になって思うには隣家のお母さんは怖い人ではなく良い人でしたが、当時の生活環境から自分の子供と甥っ子では接し方が異なっていたのだろうと思います。
そして、私と彼が小学校1年生を終了した春休みに、彼のお母さんが彼を迎えに隣家へ来て彼を連れて行ったのです。彼は、少し前に「お母さんがもう直ぐ迎えに来てくれる」と喜んで私に話していたので、私と母も一緒に喜びました。
出発の日、彼がお母さんと一緒に私の家へ挨拶に来た時、私の母は彼の服のポケットが膨らむ程に店のお菓子を入れてあげました。彼とお母さんが手をつないでバス停に向かって田んぼ道を歩いて行く後ろ姿を私は今でも覚えています。_parting_
彼が去った後、私は母から「ヒロちゃん」は今度は別の親戚の家に預けられた事を聞かされました。
あれから20年以上が過ぎ、私は28歳になっていて東京で生活していたのですが、久しぶりに実家に帰省した時、母から「この前、隣家へヒロちゃんが来て、家にも挨拶に来てくれてお前に会えなくて残念だと言って帰って行ったよ」と聞かされ、その後も彼には会っていません。
母は、彼が立派な青年になっていたのでビックリしたそうです、また幸せ相で嬉しかったと言っていました。それを聞いて、平凡に生きてきた私とは比較にならない苦労を彼はしただろうと思い、本当に嬉しかったです。
また、いつの日か彼と会える事を願って私は今を過ごしています。
今日は、ココまでにします。
次回 は、Part10: 我が家にテレビが来た _TV_house came_ をお話します。

2008年3月19日水曜日

俺の回想録 ≪Part8:小学2年の出来事≫_Reminiscences_Elementary accident_

今日は、私が小学2年生の時に起きた出来事_elementary accident_を紹介します。
あれは私が小学2年生(1962年)の秋だったと思います。私の家の隣家は、萱葺屋根の農家でしたがお父さんは遠洋漁業の船乗りで、家に居られたのはお正月の時などでほとんど家には居られませんでした。そんなわけで畑仕事などはお母さんと子供達で行っていました。
ある日、私より6歳年上の長男(中学2年生)の方が畑に敷く為に藁束を「押切り」で細かく切っていました。私は、その横で切られた藁を集める手伝いをしていたのですが、私が手を出した瞬間に「押切り」のハンドルを下げてしまい、私の左手の薬指が切れてしまったのです。
その時、私は何が起こったのかわかりませんでした。
切れたのは爪の下の間接付近で皮1枚残して垂れ下っていたのです。神経まで切断されたためか痛くなかったので泣きませんでした。私は、自分で垂れ下っていた指先を右手で摘んで元の指の位置に乗せたのです。
隣のお兄さんは、大声でワァーワァーと泣き叫びました。その声を聞いて隣家からお母さんが飛び出して来て「困った、困った、とんでもない事になってしまった」と言って私の母の名を連呼していました。
その声を聞いて母も家から出てきましたが、私の様子を見て一瞬何が起きたのか分からない様子でしたが、直ぐに自分の首に巻いていた手ぬぐいを私の切れた指と手の平まで巻き付けて、私を自転車の後ろに乗せて2km程離れた病院(診療所)へ走りました。
病院に向かう途中で、私の左手の切断部から急に血が出てきて巻いた手ぬぐいは直ぐに真っ赤に染まり、血は腕から肩にかけて流れ始めていました。
病院に着いた時、看護婦さんが私を見て驚いた顔は今でも覚えています。
私は直ぐに診察室のベッドに仰向けに寝かせられました。そして医者と看護婦さんが何やら話してから、医者が「では押さえて」の言葉と同時に看護婦さんが私の左腕の手首をがベッドの横のテイブルに押さえつけました。そして直ぐ後、私の手に激痛が走り始めました。私はその激痛に泣き叫んで暴れました。
コレは、後から母が私に話してくれた事ですが、その時医者は私の指をつなぐ為に縫っていたのですが、私がまだ幼いので麻酔を使うとつないだ指先が腐る可能性があるとの判断で麻酔無しで縫ったそうです。
母は、診察室の横の待合室に居て私の泣き叫ぶ声を聞いて失神してしまって待合室の長い椅子に寝かされていたそうです。その日、どの様にして家に帰ったのかは思い出せません。
私の指がつながり、手が使えるようになるまでに100日かかりました。途中60日ほど経った時にはつないだ指先は紫色に変色してしまい医者は「駄目かも知れない」と母に言いました。
しかし、母は私が指を切った次の日から治るまで毎日、私のために神棚に向かって朝と夜に手を合わせてくれていました。その甲斐もあってか80日ほど経ったある日、私は指が痒かったので包帯を取り外したら紫色した指の皮が剥け始めていたのです。そして、その剥けた皮の下から綺麗な肌色の指が見えていたのです。
私は、直ぐに母に見せようと仕事をしている所にいきました。母は私の手を見て「なぜ包帯を解いたの」と叱りましたが、紫色の指先を見て驚き、涙目になって「良かった、良かった」と何度も言ってました。
そして、100日程過ぎて私の指は旧のように治ったのでした。
治った指は、つないだところから少し曲がってはいますが生活には何も支障無く、指をつないでくれたお医者様には今でも感謝しています。
今日は、ココまでです。
次回 は、Part9: 幼い頃の”友との出会いと別れ”_friend_encounter_parting_ をお話します。

2008年3月18日火曜日

俺の回想録 ≪Part7:小学生時代(2)≫_Reminiscences_Schooldays_

1960年頃までは、私_Schooldays_の家の照明は電球にお皿の様な笠が付いた物でした。電球も透明で中のフィーラメントが見える物で、しばらくして白い不透明ガラスの電球になりました。
そして、私が小学校3年生の時に家に蛍光灯が付いたのです。
ある日、私が夕方まで遊んで家に帰って来ると、家の前が明るいのに驚きました。兄も家の外でも新聞紙の文字が読めると騒ぎました。
それから、私の家はお米店だったので近所の家にはまだ無かった電話機がありました。近所の人が病気になった時、また用事などで私の家の電話を利用していました。当時の電話機は、黒い色をしていて横に付いている小さなレバーを回して交換台を呼び出して、相手方の番号を言うと回線がつながるものでした。
蛍光灯が家に付いてから、しばらくすると電気洗濯機、冷蔵庫、電気アイロン、電気釜等の電化製品が家の中に入って来ました。それまでは、電気製品といえば照明の電球と仕事で使う精米機のモーターぐらいでした。
電気洗濯機が家に来る前は、母がタライ(浅い木の桶)と洗濯板による手洗いでした。
冷蔵庫が無かった時は、夏になると食事の後に残ったご飯は腐らない様に丼に盛って、それを風呂敷に包んで家の軒下に吊るしていました。
また、電気釜も無かった時は台所のカマドでご飯を炊いていました。
こうして、田舎でも生活に電化が急速に進んでいったのです。
当時、国の食料改善事業として地方の婦人会などが主になって料理教室を開いたりしていました。ある日、私の母が料理教室から帰ってきて食卓にサラダを出した時は母以外の家族はみんなビックリしました。それは、今まで田舎では料理として生野菜を食べる習慣は無く、野菜は煮るか漬物のどちらかだったのです。
また、現在大人になった私達が食しているご飯は白米(お米100%)ですが、子供の頃に食していたご飯は押し麦と白米の混ざり合ったものでした。※押し麦(麦粒を押し潰して平らにしたもの)
近頃では、麦が混じったご飯は「健康食」と言うのでしょうが、当時はお米は貴重で麦は安値だったから一般に食されていたのです。白米と味の比較をすれば美味しくありません。
また、生活水として蛇口を捻ると水の出る町営の水道施設ができたのは私が小学校3年生の頃だったと思います。それ以前の生活水は、各家に地下水の汲み上げポンプ(人力)がありました。
私は、最初に水道水を飲んだ時のカルキ(消毒薬)の味が嫌いで飲み慣れるまでに時間がかかりました。
今日は、ココまでにします。
次回 Part8: 小学2年におきた出来事_elementary_accident_ をお話します。

2008年3月17日月曜日

俺の回想録 ≪Part6:小学生時代(1)≫_Reminiscences_Schooldays_

いつの頃からか、今の小学生は私服で登校していますが、私達の子供の時_schooldays_は男の子は坊主頭で左胸に名札を付けた黒の学生服で、女の子は紺色の上着にスカート(子供用もんぺ姿の女子もいた)が制服でした。
毎日、学校から家に帰ると制服を脱いで常着の服に着替えるのです。この常着の服は破れると母が針と糸で縫ってくれたもので、当布、縫い目、がある服は普通でした。 そして、遠くの町へ行く時とか、お正月、また行事などの時は「お出かけ着」として綺麗な服を着せてもらえるのです。
子供の1日のお小遣いは5円~10円程で、飴玉1個1円、豆腐が15円位の時でした。親戚の家に行くと 叔父さんから50円~100円程のお小遣いがもらえました。
この当時、まだテレビが無かった私達子供の楽しみは毎日近くの辻にやってくる紙芝居屋さんです。今でも紙芝居の題名は「怪傑黄金バット」とか「怪傑ライオンマン」等は覚えています。私達は、お母さんから5円貰い、紙芝居屋さんから水飴を買い、紙芝居を見ながら水飴を舐めるのです。
また、時々近くの広場に「爆し(ハザシ)屋」さんが来ました。
「爆し屋」さんが来ると、母から少しのお米を貰い「爆し屋」さんに爆してもうのですが、爆す時に大きな音がするのでみんな耳を塞いで待つのです。この爆し米も私達のおやつでした。
その他には、サツマ芋をふ化(蒸す)して薄く切り天日に干した干し芋、噛むと甘い汁が出るサトウキビなどもおやつでした。
私が小学生の時は、現代とは違い学習塾などは無く、いや有ったかもしれませんが塾に通って勉強している子供はいませんでした。毎日、学校から家に帰るとすぐに遊び場である浜辺や松林へ行き、夕方暗くなるまで遊んでいました。
勉強と言えば宿題の「漢字100字書取り」がある日だけ、夕食後に卓袱台(食事用テーブル)で済ませる位でした。
子供の時の遊びは、柳の木の枝で作った刀を持って切り合う「チャンバラ」、大きな木の枝から垂れ下がった太めの藁縄にぶら下り揺らして遊ぶ「ターザンごっこ」、また女の子と一緒に遊ぶ「ゴム跳び」、缶詰の空き缶を蹴って隠れたみんなを鬼さんが探す「缶蹴り」、野球道具などは買ってもらえないので長さ1mの棒がバットとして20cmの棒をボールとした「棒野球」などがありました。
今日は、ココまでにします。
この続きは、次回 Part7: 小学生時代_schooldays_(2) としてお話します。

2008年3月16日日曜日

俺の回想録 ≪Part5:小学校へ入学≫_Reminiscences_Elementary school_

私が入学した小学校_elementary schoo_は、家から田んぼ道を歩いて20分ほど(1.5km程)の所にある、当時は木造の校舎でした。生徒数は学年で150人ほどで5クラスありました。 私達は、戦後の第1期ベビーブームの時に生まれたので生徒数が多いのです。
入学式の日、私は今でもハッキリ覚えている出来事が起こったのです。
それは、私達1年生は入学式の後、小学校_elementary school_の中の1室で「講堂」と呼ばれている所に集められ、クラスごとに名前を呼ばれ、担任の先生に引率されてそれぞれのクラスに入って行ったのですが、私だけ名前を呼ばれ無かったので広い講堂に1人だけ取り残されたのです。
そして、頭のハゲタ男の先生(校長)が近づいて来て、私に「君のお名前は?」といったのです。
私は「○ ○ ショウゾウです」と答えたら、その先生は名簿を調べ始めました。
その時、一人の若い女の先生があわてて講堂に入って来ました。 女の先生は、私に「○○ アキミツ君?」と聞きました。私は違うと首を横に振りました。 先生は困った顔をしていました。
そこに、名簿を調べていた先生が、「小泉先生、この生徒の名前はアキミツでは無く、ショウゾウ君と読むのですよ。だから、先生の1年2組の生徒です」と言ってくれて、私のクラスが分かったのです。
そして、小学生として私の生活が始まりました。毎日、学校へ行くのが楽しかったです。
それには、理由がありました。毎朝、小泉先生が笑顔で教室に入って来て生徒一人々の名前を呼んで出欠席を確認する姿が、私には眩しく感じられて、嬉しく、楽しく思える晦日でした。
学校の授業の中で、私が得意なものは図画工作だけでした。その他の勉強はみんな苦手でした。
授業中はいつも「家に帰ったら、今日は何を作ろうか」と考えて、ノートと教科書に工作の落書を沢山描いたものでした。
ある日、先生に教科書の中の落書きを見られ、私は怒られると思ったのですが先生は微笑んで「青島君、これを作るのならココをこうするともっと良くなるよ」と教えてくれて「作り上げたら先生にも見せて」と言われ、私は先生に見てもらいたくて一生懸命に作った覚があります。
今、他の教科の勉強も同じように頑張れば良かったのにと思いますが、もう遅いですよね~。
その当時は、勉強の重要性も分からず、ただ晦日楽しく充実した日を過ごしていました。
今日は、ココまでにします。
この続きは、次回 Part6: 小学生時代の生活_elementary schooldays_ をもう少しお話しさせて頂きます。

2008年3月15日土曜日

俺の回想録 ≪Part4:幼稚園時代(2)≫_Reminiscences_Kindergarten_

今日は、私が4・5歳ごろの生活の様子をお話ししたいと思います。
私は、この頃はガキ大将で近所の同じくらいの子供達を従えて遊んでいました。しかし、ガキ大将として強がっていた反面気の弱いところもあって、私には怖いと思っていたものが3つありました。
1つ目は「父」でした。
私は、末っ子でしたので父は可愛がってはくれましたが、私が近所の子供を泣かすと理由も聞かず問答無用で殴られました。殴られた瞬間に目の中に星が散った様なものが見えるのです。
だから、父は怖かった~です。
2つ目は、お正月とか町のお祭りに見かける獅子舞です。
特にお祭りの獅子は酒に酔った青年団の人たちが中に入っていて若い女性などを見ると追かけたりするので、子供_Kindergarten_の私は怖くて獅子を見かけると急いで家の押入れに隠れました。
3つ目は、当時の神社のお祭りなど人の集まる場所には必ず傷痍軍人がいました。
白装束に兵隊の帽子をかぶりサングラスを架けて鳥居の所に立っていました。片腕の無い人、松葉杖を突いて片足の無い人、などが首から小さな箱を提げて施しのお金を頂いていたのです。
私は、子供心になぜか怖い人と思っていたのです。父に怖いと話したら怒られました。
母は、私に「あの人達はお国の為に戦争で負傷した偉い人達なんだよ」と教えてくれました。
そして、数年後(5年後程)には傷痍軍人の方々は見かけ無くなりました。
当時、私の家の近くにはお店が少なくて農家ばかりでした。そのため野菜を積んだリヤカーを自転車で曳いた八百屋さん、バイクの後ろにお肉を入れた竹籠を乗せたお肉屋さんが回って来ていました。
私は、友達と近所で遊んでいてバイクのお肉屋さんを見かけると、もしかしたら夕食は母がカレーを作ってくれたのではないかと期待したものです。我が家のカレーにお肉が入るのは月に一度ぐらいで、ほとんどはジャガイモとたまねぎだけでした。でも、私にはカレーは美味しくてご馳走でした。
今日は、ココまでにします。
この続きとして、次回 Part5: 小学校へ入学_Elementary school_ のお話しをさせて頂きます。

2008年3月14日金曜日

俺の回想録 ≪Part3:幼稚園時代(1)≫_Reminiscences_Kindergarten_

私が子供(5歳位)の時は、周辺の民家でカヤ葺き屋根の家もあり、ほとんどの家が風除けの為に薪囲いがありました。
私と近所の子供たち_kindergarten_の遊び場は、近くの砂浜で砂遊び、防風林の松林でチャンバラかカクレンボでした。また、松林の近くには戦時中のコンクリートでできた防空壕とか高射砲台の壊れた場所があり、よく冒険ごっこもしました。
私が、小学校に入学する半年前に地元に幼稚園ができて、私はその半年間だけ入園しました。
園内には鉄棒とブランコと土の山があり、私はいつも土の山で泥団子をつくり友達と雪合戦ではなく泥合戦をしていました。だから、泣かした友達は数知れずでした。
先生達にもよく怒られました。
汚れた園服を先生が何度も洗ってくれたので私の服は他の子供服より色が薄かったのを覚えています。
そんな私が、ある日園長先生から明日お母さんと一緒に幼稚園に来なさいと言われ家に帰って母に言ったら、またどんな悪さをしたのと怒られました。
次の日、幼稚園に来た母に園長先生は2週間後の卒園式で私に「卒園児代表として"お別れの言葉" を言ってもらうので、この原稿の文面を息子さんに暗記させてください」と言って一枚の紙を母に渡しました。
そして、翌日から家に帰ると母との暗記の特訓が始まりました。
私は、遊びに行きたいのに特訓をさせられて、言葉を間違えると近くで見ていた兄達に嘲笑されたりでとても苦痛でした。
そんなこんなで卒園式の当日は、どうにか無事に役目を果たし、私達は地元にできた幼稚園の第一期卒園児になりました。そして園長先生から記念品として鉛筆と筆入れを貰った事を今でも覚えています。
今日は、ココまでにします。
この続きでは、Part4: 私の幼稚園時代_kindergarten_(2)として、もう少し1955年ごろの生活を紹介させて頂きます。

2008年3月13日木曜日

俺の回想録 ≪Part2:私の誕生≫_Reminiscences_Birth_

今日は、昨日の続きで私が生まれた時_Birth_のお話しです。
父と母は、東京で新婚生活を始めました。そして長男が生まれ、翌年終戦で父の実家に帰り、別棟の物置小屋の1部屋に間借りさせてもらい親子3人の生活を始めました。
そして、私の二人目の兄(次男)がこの父の実家の部屋で生まれたのです。
しかし、終戦で定職も無く生活は苦しく、母は自分の着物を潰して下駄のはなおを作り売り歩いたりしたそうです。
そんな時、近くのお米屋さんが息子さんを戦争で無くし、家の商いを継ぐ者が居ないので私の父と母に米屋の権利を譲るから米屋を始めないかと言ってくれたそうです。
父は、東京でサラリーマン(飛行機技師)をしていたので商人(米屋)になるのは気が進まなかったようです。しかし、母はいつまでも定職が無いのは不安だからと言って父の尻を叩いて二人で米屋を始める決心をしたのです。
そして、父は先妻の子である兄に実家の財産相続権の放棄を条件に小額のお金を借りて、実家から少し離れた海辺に近い隣町で米屋を始めたのです。
そして、この海辺に近い土地で私が三男として生まれた_Birth_のです。したがって、私達兄弟は生まれた場所がそれぞれ異なるのです。
私が生まれた家は、古い小さな農家風の家でした。家の中には天井が無く屋根裏の梁をねずみが通るのを子供の時によく見ました。家の前には、別棟の小さな物置兼ポットン便所があり、裏には手動の水くみポンプがありました。家の中には6帖ほどの土間があり、そこにりんご箱を並べて、箱の上に駄菓子とお米と計量秤を置いて米屋を始めたのです。また、当時の家の台所は6帖程の土間にカマドと木の風呂桶がありした。
今日は、私の誕生_Birth_としてココまでにします。
この続きは、Part3: 私の子供時代_kindergarten_ を紹介します。

2008年3月12日水曜日

俺の回想録 ≪Part1:私の両親≫_Reminiscences_My parents_

みなさんこんにちは、今日は私のブログのデビュウーです。
このブログの目的は、ごく普通の人間である自分の過ぎてきた人生を回想して、それを記録することで過去を再確認し、これからの人生をより充実させて生きていきたいと考えたからです。
(ちょっとカッコウ付け過ぎかな?ごめんなさい。)

それでは、私の回想録_Reminiscences_の始まり、始まりで~す。

私が生まれたのは昭和25年1月15日です。
第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦の年から5年目の年で、日本が敗戦からどうにか復興して世の中が落ち着いて来た頃だと思います。
父の実家は、元は下級武士の家でお城勤めの傍ら農業もしていたそうです。明治からは代々農業で暮らしてきて、父は、その農家の後妻の子供として生まれ、先妻の子供の兄がいました。
子供の時の 私の感じでは、父は常に兄(伯父)に気を使い生活をしていました。
母は、父の実家のある隣町でクリーニング店を営んでいた家の8人兄弟の二女として生まれた人です。
この父と母_parents_が結婚したのは、戦時中で、父は東京の中島飛行という会社で飛行機を作る技師でした。
母は、浜松の病院で看護婦をしていました。
私は、母から父と結婚した時の話しを聞いたことがあります。それによると、母は病院が休みの日に実家に帰って居たら、ある日、中年女性が家に来て「人に紹介されてこの家の娘さんを見に来ました」と言っ たそうです。
この女性が、母を一目見て気に入り結婚することになったのです。
女性は、父のお母さんで東京に居る息子(私の父)のお嫁さんを探していたのです。
これは、結婚の後で分かったことですが、父のお母さんが紹介されたクリーニング店は母の実家から少し離れた同じ街道にある別のクリーニング店だったそうです。
父のお母さんは、間違って母の実家に行って結婚を決めてしまったのでした。
母は、父の写真1枚を見て戦時中で男性も少ないことから結婚を決めたそうです。そして、婚前の交際など無く結婚式の時が父との初対面だったそうです。
ココまでが、私を生んでくれた父と母の紹介です。
この続きは、Part2: 私の誕生_parents_ で紹介します。