2008年3月19日水曜日

俺の回想録 ≪Part8:小学2年の出来事≫_Reminiscences_Elementary accident_

今日は、私が小学2年生の時に起きた出来事_elementary accident_を紹介します。
あれは私が小学2年生(1962年)の秋だったと思います。私の家の隣家は、萱葺屋根の農家でしたがお父さんは遠洋漁業の船乗りで、家に居られたのはお正月の時などでほとんど家には居られませんでした。そんなわけで畑仕事などはお母さんと子供達で行っていました。
ある日、私より6歳年上の長男(中学2年生)の方が畑に敷く為に藁束を「押切り」で細かく切っていました。私は、その横で切られた藁を集める手伝いをしていたのですが、私が手を出した瞬間に「押切り」のハンドルを下げてしまい、私の左手の薬指が切れてしまったのです。
その時、私は何が起こったのかわかりませんでした。
切れたのは爪の下の間接付近で皮1枚残して垂れ下っていたのです。神経まで切断されたためか痛くなかったので泣きませんでした。私は、自分で垂れ下っていた指先を右手で摘んで元の指の位置に乗せたのです。
隣のお兄さんは、大声でワァーワァーと泣き叫びました。その声を聞いて隣家からお母さんが飛び出して来て「困った、困った、とんでもない事になってしまった」と言って私の母の名を連呼していました。
その声を聞いて母も家から出てきましたが、私の様子を見て一瞬何が起きたのか分からない様子でしたが、直ぐに自分の首に巻いていた手ぬぐいを私の切れた指と手の平まで巻き付けて、私を自転車の後ろに乗せて2km程離れた病院(診療所)へ走りました。
病院に向かう途中で、私の左手の切断部から急に血が出てきて巻いた手ぬぐいは直ぐに真っ赤に染まり、血は腕から肩にかけて流れ始めていました。
病院に着いた時、看護婦さんが私を見て驚いた顔は今でも覚えています。
私は直ぐに診察室のベッドに仰向けに寝かせられました。そして医者と看護婦さんが何やら話してから、医者が「では押さえて」の言葉と同時に看護婦さんが私の左腕の手首をがベッドの横のテイブルに押さえつけました。そして直ぐ後、私の手に激痛が走り始めました。私はその激痛に泣き叫んで暴れました。
コレは、後から母が私に話してくれた事ですが、その時医者は私の指をつなぐ為に縫っていたのですが、私がまだ幼いので麻酔を使うとつないだ指先が腐る可能性があるとの判断で麻酔無しで縫ったそうです。
母は、診察室の横の待合室に居て私の泣き叫ぶ声を聞いて失神してしまって待合室の長い椅子に寝かされていたそうです。その日、どの様にして家に帰ったのかは思い出せません。
私の指がつながり、手が使えるようになるまでに100日かかりました。途中60日ほど経った時にはつないだ指先は紫色に変色してしまい医者は「駄目かも知れない」と母に言いました。
しかし、母は私が指を切った次の日から治るまで毎日、私のために神棚に向かって朝と夜に手を合わせてくれていました。その甲斐もあってか80日ほど経ったある日、私は指が痒かったので包帯を取り外したら紫色した指の皮が剥け始めていたのです。そして、その剥けた皮の下から綺麗な肌色の指が見えていたのです。
私は、直ぐに母に見せようと仕事をしている所にいきました。母は私の手を見て「なぜ包帯を解いたの」と叱りましたが、紫色の指先を見て驚き、涙目になって「良かった、良かった」と何度も言ってました。
そして、100日程過ぎて私の指は旧のように治ったのでした。
治った指は、つないだところから少し曲がってはいますが生活には何も支障無く、指をつないでくれたお医者様には今でも感謝しています。
今日は、ココまでです。
次回 は、Part9: 幼い頃の”友との出会いと別れ”_friend_encounter_parting_ をお話します。

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