2008年4月30日水曜日

俺の回想録 ≪Part38:時代の変化≫_Change of the times_

今日は、私がブログPart1~前回のPart37まで”俺の回想録”と題して記載してきた事柄の総集編として、自分が生きてきた社会の環境変化について思い付くままに書いてみようと思います。
そして今回で”俺の回想録”_reminiscences_は終わりにして、次回からは”日々の暮し”_Daily_Living_ と題して、私の現在の生活_Life_において見た事、知った事、感動した事、怒った事などを書きたいと考えています。
それでは、私の回想録_reminiscences_の総集編に入ります。
私が住んでいた1955年頃の静岡の田舎町では、国道はコンクリート舗装されていましたが、その他の道路は砂利道で舗装されていませんでした。
自動車も少なく、殆どが作業用の車でトラックやオート三輪車で乗用車は走っていませんでした。
また、人々の移動はローカルバスを利用するか自転車でした。道路は、自動車が走り去った後には砂埃が舞い上がったものです。
また、家の周辺には田んぼが広がり農家の作業に牛や馬が使われていました。
夏の夜には、どこにでも蛍の飛んでいるのが見られました。
住宅の外壁は、木の板貼りか、トタン張りが殆どで、各家の台所には釜戸があり薪でご飯を炊いていました。
水道設備は無く、各家庭ではポンプか井戸で水を汲み上げていました。
当時は、暮しにおいて経済・物資共に現代より貧しかったけれども生活ペースが遅くて、人々は伸のびと暮らしていたように私は思います。
そして、現代のように生活ペースや変化が早くなったのは、自動車が普及した事が基因になっていると考えます。
道路は、「砂利道」⇒「タール舗装(簡易舗装)」⇒「アスファルト舗装」へと変わりました。
私は、コンクリート舗装された国道をバスに乗って通ると、舗装の継目でゴトン、ゴトンと音がしたのを覚えています。
次に、服装の変化ですが一般には人々の衣類が高級品を着れるようになったのですが、私は一般家庭のお母さんの姿も変化して来たと思います。
それは、私達が子供の頃”お母さんの姿”は着物の上に割烹衣を着て、頭に手ぬぐいで姉さんかぶりをした姿です。それが、スカートにエプロン姿 ⇒ Gパン姿 に変わったのです。
また、1960年頃までは一般家庭で電化製品_electric appliance_と言われるものは”ラジオ”くらいしかありませんでした。昔の電気屋さん_Electricity shop_は、電球とラジオの販売及び照明の配線工事が主な仕事でした。
人々は、”電気屋さん_Electricity shop_”のことを”ラジオ屋さん”とも呼んでいました。
私は中学生の頃、お小遣いでラジオ_radio_の部品を購入しては、ラジオを組み立てた事があります。
ラジオも「鉱石ラジオ」から⇒「ゲルマニュウムラジオ」⇒「トランジスタラジオ」⇒「真空管ラジオ」⇒「ICラジオ」へと変化して性能が向上していきました。
次に、1965年頃までは学校で配る「お知らせ」や「テスト」などのプリントは、先生方の手でガリ版印刷されたものでした。
それが、今ではワープロ印刷に変わったのです。
私も小・中学生の時に、先生の手伝いをして手が黒インクに染まった事を憶えています。
以上の様に、変化して来た物を挙げれば限がありません。
むしろ、変化して無い物を探す方が難しいのです。
私は、世の中が経済的にも、物質的にも豊かになって人間は本当に幸福になったのだろうか?と疑問に感じるのです。
1960年代は1ドル=360円の時代で、一般の人々は経済的に豊かではなかったのですが、優しさと気配りの心を持って周りの人と助け合って生活をしていたように思います。
社会全体が貧しかったので、個人が貧しさを感じる事もなく、貧しさゆえに夢は多く持てた時代でもあったように思います。
現代は、経済的にも、物質的にも豊かになり生活も便利になりました。
そして、周りの人からの助けや気配りの心も、そんなに必要とはしなくなりました。
私は、世の中が便利になった分だけ人々から夢と感動が消えて無くなったと考えるのです。
人の幸福は、経済的・物質的な豊かさ、生活の便利さ等では無いと思います。
人は、いかなる環境であっても、その時の幸福感の基準を何処に置くかで感じ方が異なると思うのです。ですから、「昔より現代の方が幸福だ!」とか、「いや昔の方が幸福だ!」とは一概に言えないと思います。
私は、「人間は生まれたらその環境の中で生き抜くしかない。また、幸福になる(感じる)のは、その人の気持ち次第である」と、自分の考えを記して、この回想録_reminiscences_の最後の言葉とします。
次回からは、タイトル: 日々の暮し_Daily_Living_ の報告になります。

2008年4月28日月曜日

俺の回想録 ≪Part37:子供の誕生≫_Baby_Born_

今日は、私達夫婦が結婚して子供が生まれた時のお話しです。
私達が結婚_marriage_したのは、私が35歳で、妻は33歳の時で一般の人達と比べて遅い結婚でした。
私達は、年齢を考えると子供は直ぐに欲しいと思っていました。
また、私は、結婚すれば子供は直ぐに出来る_baby_born_ものと考えていました。
しかし、2年間過ぎても子供は出来ませんでした。
その間、妻は病院_hospital_で調べて頂いたのですが異状は無くて、私にも「病院で1度調べてもらいましょう」と妻に言われました。
私は、恥ずかしい気持ちになり仕事を理由にして行きませんでした。
3年目になり、私は年齢的に子供を授かるのは難しいのかと思い、少し諦めのような気持ちで妻に「子供が授かるのは、気長に待つ事にしよう」と言いました。
妻も「そうね、そうしましょう」と言って、お互いに子供が授かる事を意識しないで生活を始めた時でした。
妻が「今月も生理が始まったみたい」と、私に言ったのです。
私は、心の中で「今月もだめか、まあ~しょうがないか」と思い、少し残念な気持ちでした。
次の日、妻が「何故か?今月は生理が少ないのよ」と言ったのです。
そして、1ヶ月以上が過ぎて妻は「今月は生理が遅れているの」と言ったのです。
私は、「もしや!」と思い、家にあった”家庭の医学”_Domestic medicine_という本で”妊娠”_pregnancy_について調べ、その後に妻が薬局で”妊娠を調べる品”を購入して調べて見ると妊娠_pregnancy_の結果が出たのです。
次の日、妻は妊娠_pregnancy_を確かめるために病院へいきました。
私は、会社で1日中仕事が手に付きませんでした。
帰宅して、妻から「妊娠だって」と聞いた時は”高額宝くじ”に当った様な喜びと、「俺もついに父親になるのか」という少し不安な気持ちになりました。
そして、10ヶ月後に無事に元気な男の子を授かった_baby_born_のです。
子供が産まれた日、私が病院のベビー室の廊下でガラス窓から子供を見ていると、義兄が手に新聞紙を持ってやって来ました。
義兄は、「記念にと思い、今日販売された各新聞紙_newspaper_を全部買って来た。この子が大人になった時に見せてやれば、自分の誕生日の様子が分かるから」と言って、私の手に渡してくれたのです。
私は、今でもその新聞紙_newspaper_をビニール袋に入れて大事にしまってあります。
妻が長男を出産_delivery_した後、私と妻と子供の3人での生活が始まり2ヶ月程過ぎた時です。
妻が、近所に住む奥さんが「妊娠中で、年子だって」と、私に言ったのです。
その家は、我が家より3ヶ月程早く子供(長男)が産まれていました。
私は、「あの家は、ご夫婦が若いからな~」と返事をして、その時は知らなかったのですが、すでに我が家も妻のお腹に2人目の子供が入っていたのです。
そして、近所の家に3ヶ月程遅れて妻も長女を年子で出産_delivery_しました。
私は、2人の子供が産まれた時に不思議に思った事があります。
それは、病院のベビー室のガラス窓をとおして産まれた子供と初めて対面した時でした。
それまで、目を閉じて寝ていた子供が目を開いたのです。
そして、しばらくして目を閉じたのですが、私にはまるで子供が自分の父親の顔を確認したように思えたのです。
長男が産まれた時と、長女が産まれた時にも、まったく同じ経験を2回したのです。
産まれて直ぐの子供の目は、何も見えないと思うのですが、あれは偶然だったのか?今でも不思議に思っています。
あれから19年が経ち、今2人の子供は大学生_university student_になっております。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part38:時代の変化_change of the times_と題して、昭和に生まれて平成の今日まで58年間での社会環境の変化についてお話ししたいと思います。

2008年4月26日土曜日

俺の回想録 ≪Part36:新婚旅行≫_Reminiscences_honeymoon_

今日は、私達夫婦の新婚旅行_honeymoon_のお話です。
私達は、結婚式_wedding ceremony_まで準備に時間の余裕が無かったので、毎週日曜日は式場との打合わせでした。
そんな、私達に”幸運な出来事”が起きたのです。
私達の新婚旅行先は、「ハワイ6日間コース」で出発日は式の翌日の予定で申込んであったのですが、式場のミスで新婚旅行の出発日は2日後になっていたのです。
その為、結婚式場の方から旅行先の変更をお願いされて、料金はそのままで「カナダ・バンクーバー8日間コース」か「ヨーロッパ8日間コース」のどちらかに決めて欲しいと言われたのです。
私達は、喜んで「ヨーロッパ8日間コース」に変更して、フランス_French_・ベルギー_Belgian_・オランダ_Netherlands_を回って来たのです。
当時、一般に新婚旅行は東南アジアのグァムかハワイが普通で、ヨーロッパまで行く人は少なかったのです。
私達は、結婚式が終わった後に新幹線で東京に向かい、その夜は赤坂東急というホテルに宿泊しました。
次の日、私達は大きな旅行バッグを引きずりながら都内を歩き、上野駅にある旅行会社の集合場所に行きました。
私達の旅行は、旅行会社の計画したパック旅行でしたので全国から新婚さんが集まったのです。
集合場所には、私達の”パリ方面”以外に”ギリシャ方面”及び”沖縄方面”の人達もいました。
集合場所で旅行の説明を聞いた後、全員が複数の大型バスで成田空港に向かいました。
成田空港に着いたのは、暗くなった夕方6時半位でした。
飛行機の出発までには2時間ほどあり、私達は夕食をしたり初めての空港内のお店を見たりして時間を過ごした後、20時半頃の飛行機で成田空港を飛び立ったのです。
私達のように新婚旅行先が”パリ方面”の他に”ギリシャ方面”の新婚さんも同じ飛行機でした。
飛行機は、成田空港からカナダへ、そして北極を経由してヨーロッパに入りオランダのアムステルダム空港に着きました。
そこで”パリ方面”と”ギリシャ方面”に別れて、私達はパリに向かって再び飛び立ち、フランスのドゴール空港に到着したのです。空港では、フランスに在中の添乗員の女性が私達を迎えに来ていました。
私達は、空港から大型バスに乗りパリの街に入りましたが、そのバスに乗ったのは私達を含む5組のカップルだけでした。
そして、この5組のカップルで旅行期間中は行動を一緒にしたのです。
フランス_French_では、市内観光、古城めぐり等をしました。
私達は、パリに着いた夜に食事とショーが一緒になった「リドショー」を見に劇場に行ったのですが、私は食事が終わりショーが始まる時には”時差ボケ”で眠ってしまい、妻に起こされた時にはショーが終わっていたのです。
妻は、私に「フランスへは眠るために来たの?」と言い、少し怒ってい様でした。
帰りにショーを見た客全員に”帽子の形をしたタバコの灰皿”がプレゼントされたのですが、「眠っていたので、この灰皿は高価な物になってしまったわね」と言われ、20年以上経った今でも家で”その灰皿”を見ると、その時の事が思い出されます。
フランスから、ベルギーへは電車に乗って行きました。
ベルギー_Belgian_では、「ブルージュ」の街を観光して有名な”刺繍”を見たり”チョコレート”を食べたりしました。
ベルギーの後は、オランダ_Netherlands_へ飛行機で行き”木靴作りの工場”や”ダイヤモンドの加工場”を見学したのです。
私は、ダイヤモンドの加工場を見学している時に、加工場で売られていた指輪・アクセサリー等の中から記念にと思い、妻に安価な指輪を1つ買いました。
そして、その日の夕方にホテルへ着いて添乗員の方がチェックインの手続きをしている間の事ですが、私達カップルの間に異様な空気が流れたのです。
それは、ダイヤモンドの加工場で指輪・アクセサリー等の記念品を買ったカップルは和やかに談笑していたのですが、何も買わないカップルは笑顔も無く黙ったままでいたのです。
その時、私は「たとえ極安価の物でも、妻はこんなに喜んでくれている・・・買ってよかった」と思いました。
将来、私達の子供(男)が結婚して新婚旅行_honeymoon_に行く時には、妻になる人へこの程度の気配りはするように話したいと思います。
次の日、アムステルダム空港から日本に向けて帰路に着いたのです。
飛行機が成田空港に近づいた時、私は飛行機の中で「あ~ぁ楽しかった旅行も終わりか!明日から現実の生活が始まるのか」と少し残念な気持ちになり、私達の新婚旅行は終わったのです。
私は、帰りの飛行機で「いつか、もう1度パリに一緒に行こう」と言ったのですが、結婚して23年経ちましたが、まだ行ってません。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part37:子供の誕生_Baby_Born_のお話しをしたいと思います。

2008年4月23日水曜日

俺の回想録 ≪Part35:出会いと結婚≫_Reminiscences_Encounter_Marriage_

今回は、私と妻が結婚_marriage_するまでのお話しをします。
父がこの世を去り葬儀も終わり、私達家族も普通の生活が始まりました。
私は、1度辞めた元の会社に再就職できて毎日が充実した生活を送りながら、私もいつしか35歳の独身になっていました。
その間にも、母に私の結婚_marriage_を薦める人も何人かおりましたが、私が三男であった為か?殆どが”婿入り”の話しでした。
当時は、”婿入り”する男性が少なかったのです。
私は、会社の仕事において責任ある立場にもなっており、バブル時でもあり忙しい毎日を過ごしていたので交際していた女性はいなかったのです。
しかし、遅くても35歳までには結婚_marriage_したいと思っていました。
ある時は、2ヶ月間ほど毎週日曜日に「お見合い」をした事もありました。
しかし、私が好んでも相手の方が私を好まなかったり、相手の方が好んでも私が好まなかったりで、双方が好んで結婚がまとまる事は難しく思えていました。
私の周りの人たちは楽に結婚_marriage_しているのに、どうして自分は出来ないのだろうか?結婚_marriage_に縁が無いのだろうか?と思った事もありました。
ある日、私は母の前で「望まれたら”婿入り”しても良しとする」と言ったら、母は”婿入り”に反対したのです。
その理由は、父の弟(私の叔父)が”婿入り”していて、妻方の家族に対して苦労した事を知っていたからです。
母は、私に「昔の言葉_old words_で”米ぬか3合あったら婿入りするな”って言うよ」と言いました。
1985年の夏が終わり、9月に入ったある残暑の日曜日、私は実家の店先で自分の自動車を洗車していると1台の車が止まり、降りてきた60歳位の女性が店の中に入って母と長話しをしてから、お米を買って帰りました。
それから、2~3日過ぎて母は私に1枚の写真を見せたのです。
そこには、つつじの花が咲く花壇に一人で立っている女性が写っていました。
写真の女性は、全身のため顔が小さくてハッキリとは分かりませんでしたが、なんとなく可愛い女性に見えたのです。
母は、「お前が良ければ、今度の日曜日この女性と会って見ないか?」と言ったので、私は会う事にしました。
紹介してくれた人は、この前の日曜日に車で我が家に来て、母と長話しをして帰った女性でした。
そして日曜日、私は約束の時間:午後1時に約束の場所であるレストランへ行きました。レストランは、日曜日なのにシャッターが閉まっていて、その前に1人の若い女性が立っていたのです。
私は、聞かされていた名前の女性か確認して、その場に紹介してくれた人が居なかったので、そのまま二人でドライブに出かけたのです。
ドライブ中に、彼女と色々な話をしました。私は、初対面なのに彼女と会話する自分が自然体で楽な気持ちで話していると感じ、以前からの知り合いのように思えたのです。
お互い意気投合して、デート先ではいつの間にか手を繋いで歩いていたのです。
彼女と最初に出会った_Encounter_9月18日から2日後の3回目のデートでプロポーズをして彼女からOKを得たので、結婚_Marriage_までトントンと話が進み、1ヶ月と少し後の11月1日にはアパートを借りて二人で住み始めました。
そして、12月1日に結婚式_wedding ceremony_を行ったのです。
結婚して数日後、私はあれほど他人同士が結ばれるのは難しいと思っていたのに、楽に結婚できてしまった事で何か運命的なものを感じたのです。
私は、彼女と結婚する運命で生まれて来ていたのではないのか・・・と思えたのです。
現在、結婚_marriage_して23年過ぎましたが、妻は今でも変わらぬ穏やかさで毎日私に接してくれています。
私は、そんな彼女に対して心の中では尊敬して感謝もしています。
私は、親子は血で繋がるが、妻は血の繋がりの無い他人である私の子供を生んで_child_born_くれたのだから、大切にしなければと思うのです。
そして、これから先も同じ平凡で平和な生活_peaceful life_が続くことを願っています。
今日のお話しは、ココまでにします。
次回は、Part36:新婚旅行_honeymoon_のお話しをしたいと思います。

2008年4月21日月曜日

俺の回想録 ≪Part34:辞めた会社に再就職≫_Reminiscences_Reemployment_

今日のお話しは、私が建築の施工技術を学ぼうと建設会社に就職して、工事現場の監督をいていて怪我をしてしまい、その会社を1年弱で辞めた後の話しになります。
私は、会社を辞めてから3ヶ月ほど実家の米屋の仕事を手伝いながら、次の就職先を探していました。_job hunting_
その間に、実家では私が生まれ育った家を建て替える事になり、私は実家の設計計画もしていました。
図面を工事会社に渡した頃に、専門学校_vocational school_に入学する前まで勤務していた会社から1本の電話が入ったのです。
私が、受話器を耳にすると元上司の声で「ヨウ、元気!今実家にいるんだって、最近会社で請けた業務が建築要素を含んだ仕事なのでアルバイト_part-time job_として手伝ってくれないか?」と言って来たのです。
私は、建築の就職先を探していたのですが、見つかるまでアルバイトとして勤める事に決めました。
元の会社での仕事は、私が以前行っていた土木設計業務に建築要素が加わる楽しい仕事でした。
そのため、再就職活動_job hunting_がおろそかになって仕舞いました。
そんな時でした、元気に仕事をしている父の尿が異状な黄色である事に、母が気付いたのです。
母に促され、父が病院_hospital_へ行ったのですが「即、入院」する事になり、母と兄が病院に来るよう呼ばれたのです。
そして、父の病気は「癌」_cancer_で、医師_doctor_から「あと半年の命です」と言われたのです。
その夜、会社から戻った私は母から父の病名を聞いたのです。
私は、それまで”家族の死の宣告”また”癌という病気”はテレビドラマでの話しで、どこか他人の話しのように思っていたので、直ぐには現実として受け止める事が出来ませんでした。
しかし、無情にも現実だったのです。
父の病名は”胆管癌”の末期でした。そのため、胆汁が尿と一緒に体外に出ていたのです。
その頃、私は会社で上司から「もう一度、会社に戻って来ないか?、土木も建築も同じ建設業で、会社としても両方の知識を持った社員が必要だから」と言われていたのです。
しかし、自分は”建築の道”へ進みたいと思って就職活動_job hunting_を会社に内緒で行っていたのです。
父の病気を知ってから、私は悩みました。それは、「息子の私が、就職先が決まっていないアルバイト_part-time job_の状態では、父は安心出来ないだろう」と考えたからです。
そして、私は会社に戻る決心をして、元の上司に戻る意思を伝え、会社の正社員となったのです。
父の手術は、8時間以上かかり「悪いところは全て取り除きました」と医師_doctor_は言いました。
手術が終わって1月程して、父は退院しました。
しかし、入院直前まで元気だった父が退院の時からは体力も弱り、痩せて本物の病人になってしまったのです。
父が退院した時には、実家は新築していたので、父は私の設計に満足してくれました。
そして、父に元の会社に戻った事を報告したら、父はただ黙って頷きました。
その時、父はどの様に思ったか?私には知る事が出来ませんでした。
退院後、父は家庭養生_home care_で3ヶ月程寝たり起きたりの生活でしたが、月が変わる度に父の体は衰弱していきました。そして、父は再入院して2ヶ月の闘病生活_The days of fight against illness_の後、この世を去りました。
享年68歳で、私が29歳の時でした。
今日のお話しは、ココまでです。
次回は、Part35:出会いと結婚_encounter_marriage_のお話しをしたいと思います。

2008年4月19日土曜日

俺の回想録 ≪Part33:思わぬ出来事≫_Reminiscences_unexpected accident_

前回の続きのお話しになります。
私は、建築設計事務所_building drawing office_を辞めて施工技術を勉強したいと思い、直ぐに建築施工会社_building execution company_に就職しました。
その会社は、社長の外に一級建築士の方、現場監督員2人、女性事務員の計4人と、提携している職人達で構成されていました。そこに、二級建築士の私が加わったのです。
私は、入社して3ヶ月程は社内で一級建築士の仕事を手伝い製図作業をしていたのですが、施工現場が忙しくなり監督員が足りなくなったので現場に出るようになったのです。
私が担当する事になった現場は、製茶工場_processed tea factory_の新築工事でした。
私は、以前土木工事現場の設計と管理は経験していたので、建築現場の監督も自分には出来ると安易に思ってしまったのです。
しかし、工事が始まると経験する全てが初めてに思えて、私の経験など微々たるものでした。
建築現場は、材料と職人の種類が多いので作業工程を間違えると大事に至るのです。
私は、入社してしばらくの間は電車で通勤していたのですが、現場を監督する事になり会社から自動車を与えられました。
朝、会社に寄ってから現場へ向かい、現場作業が終わるとそのまま実家に帰宅する生活でしたが、帰宅する車の運転中に1日の作業結果の把握と明日の作業の段取りを考えてしまい、気が付くと実家に着いていて、自分は「何処を走って帰宅したのだろう?」と運転していた時の記憶が無い日もありました。
ある日、それまで現場の外壁工事が遅れていたのですが、遅れを取り戻そうとして大勢の外壁材を貼る職人さんが現場に入って来たのです。
工事が遅れていた理由は、材料会社の現場担当者が個人で処理しようとして出来なくなり、急遽その会社が名古屋から職人を送り込んだのです。
職人達は、外壁を貼る時に使用する定規が足りないと言い、私は現場にいた大工さんに定規を作らせたのです。
私は、大工さんと一緒になって定規を作ろうと電動ノコギリを借りて作業をしていた時でした。
私が木材を切ろうとしていた時に、木材の端を押さえていた人がその木を動かしたのです。
私は、反射的に電動ノコギリを手前に引いてしまい、自分の右足の太股を切ってしまったのです。
普通の電動ノコギリは安全装置が付いているのですが、私が使った電動ノコギリは職人の方が安全装置を取り外して使っていた物だったのです。
私は、咄嗟に首に巻いていたタオルで傷口を押さえると、大工さんに車で近くの病院へ連れて行ってもらいました。
病院_hospital_に着くと、直ぐにベットに寝かせられ血で真っ赤になったズボンが脱がせられないのでハサミで切り裂かれたのです。
傷口は、幅6cm×長さ20cm程に腿肉が切り開いた形になっていました。
そして、その傷に看護婦さんが消毒液を流して、ピンセットの先に付けた脱脂綿で傷口を擦り綺麗にしたのですが、その痛さに涙が出ました。
その時、看護婦_nurse_さんから「男なら、我慢しないと」と言われたのですが、あまりの痛さで反論する言葉が出せませんでした。
その後、医師_doctor_の手で傷口は22針も縫ったのでした。
そして、そのまま病院に2週間入院する事になったのです。
傷の手当てが終わり入院する病室のベットで寝ようとした時、社長が慌てた姿で病室に入って来て「大工が慌てた電話で君が”足を切り落とした”と連絡して来たのでビックリしたよ!それで傷の方はどうなんだ?」と聞かれ、私が事故の様子と傷の程度を説明したらホット安心した様子で帰って行きました。
そして、2週間が過ぎ退院する時に医師_doctor_から「傷があと1ミリ深かったら神経が切れてしまい、貴方は歩行に支障をきたした障害者_handicapped person_になっていたかも知れない」と言われたのです。
退院して、しばらくの間は歩くと傷口は少し傷みましたが、医師_doctor_は”歩いたほうが良い”と言っていたので直ぐに仕事へ復帰しました。
工事現場は、他の社員が監督するようになり、私は社内で設計製図の仕事に戻ったのです。
しかし、小さな会社なので社長と一級建築士の方が設計関係の仕事をしていて、私が手伝う仕事は少なかったのです。
現場担当の者は、人手が足りなくて忙しく働いていたので、私は少しづつ居た堪れない気持ちになってしまい、会社を辞める決心をしたのです。
入社した時、社員の皆さんが良い人達で社内の雰囲気が私は大好きでした。不満は何も有りませんでした。
私は、会社の仕事状況に応えられない自分が満足以上の給料を頂いている事に、毎日心苦しくなっていったのです。
事故の後、2ヶ月が過ぎた頃に私は会社を辞めたのです。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part34:辞めた会社に再就職_Reemployment_のお話しをしたいと思います。

2008年4月17日木曜日

俺の回想録 ≪Part32:社会に再出発≫_Reminiscences_fresh start_society_

今日は、私が27歳の春(1977年)に専門学校の建築科を卒業して社会人として再出発した就職先の設計事務所_drawing office_でのお話しをさせて頂きます。
私が勤務した設計事務所は、個人の住宅の1室を事務所にした職場でした。
従業員は、男性が所長と24歳の「杉本君」と私の3人で、女性は所長の奥さんと娘さんの2人の計5人でした。
奥さんは、事務所の役員として実務はません。娘さんは、一般事務と車の運転手が仕事でした。建築の設計実務は、私達3人でおこなっていたのです。
この事務所は、私が就職活動_job hunting_していた時”求人”はしていなかったのですが、過去に学校の先輩が就職した事務所ということで、学校から私を紹介して頂いたのです。
そして、面接だけはして頂ける事になり面接試験を受けに来たのです。
私は、就職を早く決めなければと思い、その時は給料の話は無しのまま採用が決まったのですが、勤務して最初の給料を頂いた時に驚きました。私の初任給は、通勤費込みで4万円だったのです。
私は、通勤にバスと電車を利用していたので通勤費を引くとお小遣い程度の金額しか残らないのです。
以前、私が勤務していた会社で頂いていた給与までは望んではいませんでしたが、1/3の金額だったのです。
私も27歳になて、周囲の人達から結婚を薦める話が出始めていましたが、私は「修行の身だから結婚は考えない」と言い訳していました。
秋になって所長から、私と”同僚の杉本君”に建築士_authorized architect_の資格試験_qualifying examination_を受験するように言われたのです。
受験前に、杉本君は私に「今回も失敗したら、事務所を辞める覚悟だ」と言ってました。杉本君は、この試験に過去3回失敗していて、所長からは「君は、建築設計の仕事には向いていない」とも言われ、彼は”もう後が無い”と追い詰められた状態で試験を受けたのでした。
そして、彼は受験に失敗して事務所を辞めてしまったのです。
私は、試験に合格して晴れて2級建築士の資格を得たのですが、以前会社勤めを経験している私には所長の家族と職場の雰囲気に馴染めなかったので、杉本君が辞めて2ヶ月後に私も事務所を辞めました。
私は、専門学校_vocational school_を卒業して設計事務所に就職した年に”中学校の同級会”に出たのですが、クラスメートの男性6割は既婚者になっていました。また、職場では責任ある役職に着いて頑張っていたのです。
クラスメートには、私が26歳で学校に入学した事が理解できないという意見などもありました。
私も、本当にこれで良かったのか自分で自問自答をする事もありましたが、そのな時はいつも高校の先生の言葉を思い出しては納得していました。
それは、私が専門学校に受験願書を提出する前に、母校の高校へ卒業証明書を頂に行った時でした。
私は、担任の先生に会い卒業証明書の必要理由を話した時に、先生は私に「男は30歳前までは色々体験したり挑戦するのは良い事さ、しかし30歳を過ぎたら自分自身に責任を持たなければいけない」と言って応援してくれたのです。
私は、将来は建築設計事務所_authorized architect office_を開きたいと思っていたので設計事務所を辞めた後に、今度は建築の施工技術を学びたいと思い施工会社に就職しました。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、新しい職場で遭遇したPart33:思わぬ出来事_unexpected accident_のお話しをしたいと思います。

2008年4月16日水曜日

俺の回想録 ≪Part31:学生生活の終わり≫_Reminiscences_Student life_

いつも、私の回想録を読んでくれて有難う御座います。
今日は、前回に続き私が専門学校_vocational school_を卒業するまでの苦しかった学生生活を思い出しながらお話ししたいと思います。
私は、実家で1977年「正月」を迎えてから、東京に戻り、卒業までの残り3ヶ月の学生生活を始めました。
学校生活_Student life_は、授業と卒業設計の作成がを中心で就職活動_job hunting_もしなければなりません。
私の学校では、卒業設計作品の提出が決められた日時に1分でも遅れると、会場は閉じられて受理されません。そして、卒業ができなくて留年となるので生徒は卒業設計の作成に必死になるのです。
私達の学校では、1クラスの生徒数は入学時に120名ですが、途中で退学する学生もいて卒業時には90名前後になっていました。
3学期初めには、クラスで70%の生徒は就職先が決まっていましたが、私を含む30%は決まっていませんでした。
私は、卒業したら静岡に戻る予定でいたので、静岡からの求人を待っていました。しかし、オイルショックによる不景気が回復しておらず、静岡からの求人は無かったのです。
学校から、過去に卒業生が就職した会社へ問い合わせして頂き、私の就職先が決まったのは卒業式の1週間前でした。
その間、私は先生方から「静岡に戻らないで、本校で教師の補助職員として残らないか?」とか、女性教師の方からも「主人が経営する設計事務所へ紹介するから、そこで働いてみない?」などと言って頂いたのですが、何故か?私は静岡に戻る事しか考えていませんでした。
私の学生生活_student life_も、卒業設計の作成に追われ、日々苦しくなっていました。
卒業設計の途中審査に間に合わせるため、薬屋で”眠くならないアンプル”を購入して徹夜を続けたりしました。
その時、私は知ったのですがアンプルを飲んで一睡もしないで徹夜できるのは2晩が限界でした。3晩目には、紙に書いた文字が浮き上がり空中で舞っている様に見えてくるのです。
当然、頭脳も働かないで計算なども出来なくなるのです。
私の部屋は、昼間でも暗いので24時間照明を点けたままで、コタツも電気を入れたままの状態でした。その時の電気代は、12,000円の請求書が送られて来たのには驚きました。
卒業作品の提出日の1週間前も、この様な殆ど眠らない状態でした。
提出日の朝、徹夜のまま顔も洗わないで駅まで歩いた後、電車に乗って学校近くの駅で降り、駅からまた学校まで歩き、校内の提出会場で作品の提出審査を受けて受理された後も、また同じ道のりをアパートまで帰って来たと思うのですが、私には”提出審査を受けた記憶”が少しだけ残っているだけで、どのようにして学校まで行き、アパートまで帰って来たのか記憶に無いのです。
アパートの部屋に帰ってきたら、私は直ぐに眠ってしまった見たいです。
私が、物音で目を覚ました時は夕方で暗くなっていました。テレビを見たらニュースの日付が違うのに気付いて新聞の日付を確認したら、卒業作品提出の次の日になっていたのです。
そうです、私は学校から帰って直ぐに眠ってしまい、その日の夕方に目を覚ましたと思ったのですが、実際は24時間以上眠ってしまい目が覚めたのは、次の日の夕方だったのです。
その日、私は夕食を済ませて、早めの銭湯に行きゆっくりと入浴しました。
私達は、卒業作品の提出と同時に「卒業休み」に入り、2週間後の卒業式を最後に学校生活は終わったのです。
私は、卒業休みの時に学校から紹介された「静岡にある設計事務所」に就職が決まりました。
卒業式_graduation ceremony_が終えて、実家から兄が迎えに来たトラックに荷物を乗せて、私は静岡へ帰って来たのです。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part32:社会に再出発_fresh start _society_として再就職先でのお話しです。

2008年4月14日月曜日

俺の回想録 ≪Part30:冬の北国訪問≫_Reminiscences_Snowy district_

今日は、私が専門学校_vocational school_の卒業を控えた2年生の冬休みに秋田へ行った時のお話しをします。
私は、学校の秋のテスト休みに一人旅をして、旅先の能登で知り会った2人組の女性達に会いに行ったのです。
私は、学校が冬休みに入る前日、授業が終わりアパートに戻ると静岡の実家へ帰省する準備をしました。
その夜、11時頃に銭湯から部屋に戻ると、秋田の彼女達の事が思い出されたのです。
私が育った静岡では、冬でも殆ど雪は降りません。降っても冬の間に2~3日程で、積もる事は10年に1度有るか?無いか?です。
私は、彼女達が住む「雪国」_snowy district_である秋田へ行ってみたい。学校を卒業して静岡に帰れば2度と秋田へ行く事も無いだろう。また、私は小学4年生の時に家の近くでお母さんと二人で住んでいた友達が秋田へ引越して行った思い出があり、雪国”秋田”を見てみたいと強く思ったのです。
私は、急いで旅行準備をしてJR赤羽駅から23時半頃の京浜東北線に乗ったのです。
その時、私の服装は皮靴を履きスーツにコートを着た姿でした。しかし、この衣装で雪国_snowy district_に行った事が、後で失敗だった事に気付かされたのです。
私が乗った電車は、福島が終着駅でした。
駅のホームに下りて、駅員さんに秋田に行く電車の事を尋ねました。
そして、秋田行きの1番電車は6時半頃だったので、駅ホームの隅にある駅員さんが休憩する小屋で私も休ませて頂いたのです。
朝になり駅が薄明るくなった頃、私の乗った電車は秋田方面に向かって出発したのです。
電車を乗り継いで秋田の横手駅に着いたのは14時頃でした。
私は、突然の訪問に彼女達には迷惑ではないかと心配でしたが、病院に勤務するナースの彼女に電話で、横手駅に来ている事を連絡したのです。
彼女は、夜勤明けで家で休んでいたのですが、驚いて直ぐに駅に迎えに来てくれました。
私と彼女は再会を喜び会い、その後二人で横手市内を見て歩き、建築を学ぶ私に参考になればと彼女が勤務する病院も案内してくれました。
そして、市内の食堂に入って秋田名物の「きりたんぽ」を食べながら色々なお話しをしました。
その時、初めて知ったのですが裁判所に勤務するもう一人の彼女は1月前に結婚をして、今は大館市に住んでいて来られなかったのです。
私達は、食事が終わり店を出た時には辺は暗くなっていました。
そして、彼女の案内で市内のビジネスホテル_budget hotel_に向かい、私達はホテルのロビーで別れたのです。
私は、ホテルに向かって歩きながら”雪国の冬”と”静岡の冬”の違いに驚きました。
静岡の冬は、風が強く吹き寒いのですが、雪国の冬は風は弱いが冷たく、底冷えのする寒さと冷たさでした。
次の日、彼女は仕事で会えませんでした。
私は、1人で街外れにある横手城を観に行き、途中の凍った坂道で滑って転んでしまったのです。
その時、近くにいたお婆さんが心配して私に近づいて来て「怪我は無いかね?アンタさんは何処から来たの?」と聞かれたのです。
私が、「静岡」から来たと言ったら、お婆さんが「私も、静岡から横手へお嫁に来たんだよ」と言って、懐かしそうに若い時のお話しをしました。
また、「雪国_snowy district_では、冬の間みんな滑らないように長靴を履いているのに、皮靴では滑るから注意しないと危ないよ」と言われたのです。
私は、お婆さんと横手城で別れてから街中に戻り、駅から彼女へ「突然来てしまったお詫び、案内してくれたお礼と別れの挨拶」の電話を入れて、横手発16時頃の「東京行き」の電車に乗ったのです。
その時、二度と訪れる事は無いかもしれない土地を離れる事に、私は何故か”切ない気持ち”になったのですが、それは駅のホームで秋田出身の人気歌手の”哀愁を帯びた歌声”が流れていた為かも知れません。
そして、私が東京のアパートに着いた時には夜の10時を過ぎていました。
次の日、私は静岡の実家へ帰り、家族と一緒に正月を迎えたのです。
今日のお話しは、ココまでになります。
次回は、Part31:学生生活の終わり _Student life_として、卒業までの苦しかった学生生活をお話します。

2008年4月12日土曜日

俺の回想録 ≪Part29:旅行記(旅の終)≫_Reminiscences_Traveler's diary_

今日も、前回の能登半島旅行の続きで福井から東京に戻るまでのお話しをします。
私は、金沢で深夜の映画館を出て駅に向かって歩いていると、あまりの寒さに途中で見つけたおにぎり屋さんに入り、おにぎりを食べながら暖を取り30分程過ごして、駅に向かいました。
私は、この旅行で知り会った秋田の女性達_traveling companion_との待ち会わせのため、時間には早すぎますが、他に行く所が無いので駅のベンチで眠ろうと考えたのです。
駅に着いたのは、朝の5時少し前でした。
私は、待合室のベンチに横になって眠りましたが腹痛で目が覚めてしまいました。
夜中におにぎりを食べたのが悪かったのか?、お腹を冷やしたのか?原因は分かりません。
時刻は6時頃で、その後は眠れ無いまま時間は過ぎました。
時刻が8時になり、彼女達が駅にやって来ました。そして、私を見つけて「お早う御座います。あれ、どうしたんですか?」と尋ねたので、私は腹痛である事を言うと、彼女達は薬を持っていて私にくれました。薬を飲んで、しばらくすると私の腹痛は消えました。
それから、私達3人は電車に乗って福井に向かったのです。
観光場所の「東尋坊」では遊覧船に乗り海上から自然が造った石の壁を見たり、「西山公園」では芝生に座って色々語り合いました。
私は、その時の会話で知ったのですが、彼女達は秋田県横手市の人でした。
彼女達の一人は、裁判所に勤務していて”卓球の選手”で、国体に県代表で出た事がある人だったのです。
もう一人の方は、病院に勤務しているナースで、その病院は有名な建築家が設計した病院でした。
私達は、その日の夕方6時頃に金沢駅に戻ってきました。
彼女達は、金沢に今夜も1泊して、明日秋田に帰るとの事でした。
私は、彼女達と駅前の食堂で食事を終えてから、お互いに旅の安全を願い別れたのです。
そして、私は金沢駅から東京に帰ろうと電車に乗ったのですが、途中の富山駅で下車をしました。
私が、富山で下車した理由は”子供の時に家に来る置き薬屋さんが富山から来ていた”ので、富山とはどのような所なのか?興味を抱いたのです。
私は、太平洋側に住んでおり、再び日本海側の街に来る事は無いかも知れないと思い、夜でしたが観て行こうと思いました。
富山駅前を真直ぐ歩いて行くと右手にお城が見えて、左の方に折れて行くと繁華街があり、私はどこか静岡市に似ていると思いました。
私は、駅前周辺を観て廻り、駅に戻った時には夜11時近くになっていました。
それから、富山駅を11時半頃の”東京行き”の夜行電車に乗り、東京に帰ったのです。
電車の席で眠っていた私が目を覚ました時には、電車は東京に着いていました。
そして、自分のアパートに戻ったのは朝6時半頃で秋なのに非常に寒い朝だった事を覚えています。
その日、夕方になって大家さんが私に電話が入っていると呼びに来たのです。
電話の相手は、彼女達で「今、横手へ無事に着きました。」と連絡してくれたのです。
そして、「また、今度は横手にも来てください。」と言われ、私も「静岡へも来てください。」と答えて、お互い旅での”お礼”を言った後、電話を切りました。
こうして、私のテスト休みの「一人旅」_traveling alone_は終わりました。
そして、また学生生活が始まったのです。
今日は、ココまでとします。
次回は、Part30:冬の北国訪問 _Snowy district_のお話しで、一人旅で知り会った彼女達が住む”秋田の横手”へ訪ねた時の事をお話しします。

2008年4月11日金曜日

俺の回想録 ≪Part28:旅行記(旅の友)≫_Reminiscences_Traveling companion_

今日は、前回の能登半島旅行記の続きをお話しします。
私が、能登半島を走る定期観光バス_periodical sightseeing bus_での旅の途中に寄った「巌門」と言う観光名所での事です。
私は、海岸の岩山に大きな穴の開いた「巌門」を見た後、バスの出発までにまだ時間があり休んでいると、近くの店でサザエ等の貝を焼いて売っているのを見つけました。美味しそうな匂いに惹かれた私は、それを買い、近くのベンチで食べていました。
すると、後の方から笑う声がしたのです。
私が振向くと2人組の女性達が微笑んで、バツが悪そうに頭を下げて「あの~、お口の周りに」と言って、私の口に指差したのです。
私は、慌てて口を拭うと手に醤油のタレが付きました。それが、キッカケで彼女達と会話が始まりました。
彼女達は、休暇を取って秋田から旅行_traveling_に来ていたのです。バスには途中から乗っていたそうですが、私は知りませんでした。
お互いに、自己紹介をしてから「どこまで行かれるんですか?」と彼女達に聞かれ、私は「金沢まで行き、市内観光をしてから東京に帰る」予定等を話しました。
そして、「巌門」をバスが出発してから輪島まで私と彼女達3人は、一緒に観光地を見て廻りました。
彼女達は、輪島に宿泊する予定だったので、そこで彼女達はバスを降りたのです。
別れる時、お互いにもう会う事は無いと思い「良い旅をしてください。」と言って、別れたのです。
私は、その後もバスで金沢市まで行きました。金沢に着いたのは午後の7時頃でネオンが輝く夜になっていました。
私は、駅前から歩いて10分位離れたビジネスホテル_budget hotel_に、その日は宿泊したのです。
次の朝、私は寝坊してしまい電話のモーニングコールで起こされた時には、ホテルのチェックアウトの時間を過ぎてしまい10時半になっていました。慌てて、食事も取らずにホテルを出て、市内定期観光バスの出発場所がある駅にいきました。
そして、定期観光バスの案内板を見ると午前中に出発の1日コースは過ぎてしまい、午後に出発する半日コースに参加する事にしたのです。
私は、出発までには時間が2時間程あったので、その間に食事をしたりして時間を潰し、出発30分前に観光バスの発着場に立っていると、駅の方から昨日別れた秋田の彼女達がバス発着場に向かって歩いて来たのです。
私と彼女達は、同時にお互いを見つけて驚き会いました。そして、彼女達も半日コースに参加して3人で観光をして廻ったのです。
その日、観光めぐりが終わりバスから降りた時に、彼女達から「明日、私達は福井の東尋坊 へ行く予定ですが、一緒に行きませんか?」と誘われたのです。
私は、旅費も残り少なくなり、その夜の電車で東京に帰る予定でいましたが、彼女達に強く望まれたので時刻表から旅費を計算して残金と照合したのです。その結果、今夜は旅館に泊まらなければ「東尋坊」へ行ける事が分かったのです。
私は、彼女達と明朝8時に駅で待ち合わせして、一緒に行く事を約束して別れました。
彼女達は、その夜は金沢市内に予約したホテルに泊まるとの事でした。
私は、彼女達と別れた後は一人で駅周辺の繁華街を見て回り、食事を済ませてから深夜でも見れる映画館を探して中に入りました。
館中では、オカルト映画「オーメン」を上映していましたが、殆ど見ないで私は眠りました。
私は、映画館_movie theater_の人に「お客さん、映画は終わりましたよ」と言って起こされて目が覚めたのです。
私は、もう朝なのかと思い映画館を出ると、外は暗く星が出ていました。時計を見たら、朝の4時でした。秋でしたが、外が非常に寒かった事を憶えています。
今日は、ココまでとします。
この続きは、次回Part29: 旅行記(旅の終)_Traveling_ としてお話しします。

2008年4月10日木曜日

俺の回想録 ≪Part27:旅行記(能登)≫_Reminiscences_Traveling_

今日の話は、私が一人旅_Traveling_に出て4日目に新潟県の佐渡からフェリーに乗って能登半島の先端「珠洲市」に着いたところからお話しをします。
佐渡島と珠洲市をを結ぶフェリーに4時間程揺られ、私は午後5時半頃に珠洲港に着きました。
港は、少し薄暗くなっており、フェリーから降りたのは30人程でした。
旅行客は、私を含めて6~7人程で、その他は仕事関係の人達でした。
フェリーが着いた岸壁には、20人程の人達が迎えに出ていて、その中の1人が手に旗を持って私に近づいて来たのです。
そして、私に「今夜の宿泊場所はお決まりですか?」と言って来たのです。
私は、フェリーを降りたらバスで金沢へ向かって進む予定でいたので、「これから金沢へ行きたいので、バス停はどちらですか?」と聞いたら、その人は「今日は、もうバスは無いですよ。今夜は、うちの宿に泊まって、明日の朝1番の定期観光バスに乗って行くと良いですよ」と、旅館の番頭さん風の人に言われました。
私は、その旅館に泊まる事に決め、番頭さんに案内されて港に近い旅館に入ったのです。
私は、安い部屋を希望したので通された部屋は2階の6帖間で、コタツが中央に置いてあるだけのテレビも無い部屋でした。
部屋に入って、しばらくすると先ほどの番頭さんがお茶を運んで来てくれて「食事の前に、お風呂をどうぞ」とすすめてくれました。
私が、風呂から部屋に戻ると、直ぐに番頭さんが食事を運んでくれて「貴方には、ほかのお客とは別で、特別に松茸御飯を持って来たから食べてヨ」と言いながら給仕をしていると、階下から女性の声で「あんた、何してんのよ~」と呼ぶ声がしたのです。
番頭さんは、「この松茸御飯は、女母には内緒だよ」と言って部屋を出て行きました。
私は、その時初めて「あの人は、番頭さんでは無く旅館のご主人なんだ」と知ったのです。
番頭さんみたいなご主人は、少し女性言葉のような喋り口で、気弱な、人の良さそうな人でした。
食事も終わって、私が1人で部屋にいると、ご主人が「テレビが無くて悪いね。若い貴方には、こっちの方が良いかも知れない。」と言って、沢山のポルノ雑誌を持って来たのです。
ご主人は、話の好きな人で色々な地元の話しをしてくれて、私が寝る時間まで私の部屋にいたのです。
次の朝、ご主人が私のバッグを持って、旅館から歩いて5分ほどの所にある「定期観光バス」の停留場まで案内してくれました。
そして、切符まで購入して私にくれたのです。
別れ際に「学校卒業したら、今度はお金を沢山持って、もう一度遊びに来なさいよ、夜の面白い所に案内してあげるから」と言って、バスが出発してもずっと手を振って見送ってくれました。
私は、「いつか、もう1度珠洲に遊びに来よう」と、その時は思ったのですが、私は太平洋側に住んでいるので、あれから再び珠洲を訪ねる事はありませんでした。
私が乗った定期観光バスは、能登半島の外海に沿って走りました。
バスの乗客の中には、観光客以外に大きな荷物を背負って行商に行く地元のお婆さん達もいました。
この、お婆さん達の方言による会話は、何を喋っているのか私には理解できませんでした。
バスは、観光場所_sightseeing spot_を観ながら輪島・金沢方面へ向かって進んで行きました。
私は、途中の「巌門」と言う観光場所で、私と同じ観光していた秋田の女性2人組みと知り会ったのです。
今日のお話しは、ココまでとします。
この続きは、次回のブログ、Part28: 旅行記(旅の友)_traveling_ としてお話しします。

2008年4月9日水曜日

俺の回想録 ≪Part26:旅行記(佐渡)≫_Reminiscences_Traveling alone_

今日は、私が一人旅_traveling alone_に出て2日目に新潟県の佐渡に着いてからのお話しをします。
小型飛行機が無事に佐渡に着陸して、ホットした私が飛行場に降り立ったのは午後の4時頃でした。
その日は、飛行所の周辺を散策しながら泊まる宿を探して終わりました。
私が見つけた宿は、私が想像していた佐渡の雰囲気とは異なる、洋風的な外観で少し値が高そうなところでした。
飛行場周辺では、この旅館しか見つけることが出来なかったのです。私は、その旅館に宿泊しました。
次の朝、私は明るい洗面所で顔を洗っていて、鏡に写った自分の顔を見て驚きました。
私の顔は痩せて、目の縁がクマで黒ずんで、まるで病人のようでした。
私は、2年生になって毎日が部屋で課題に追われる生活をしていて、睡眠時間が平均4時間ほどでした。
学校に入学する前、社会人の時には体重が65kg程でしたが、その時は59kgになっていたのです。
私は、学校生活で知ったのですが、睡眠時間が4時間とれれば次の日に頭も働き、授業にはそんなに支障は無いのです。
しかし、睡眠時間が3時間程度だと次の日に頭は働きません、昼間ずっと起きていられ無いのです。
昔、ナポレオンは”人間は4時間眠れば十分である”と言ったそうですが、人間が厳しい環境下で暮らす場合の睡眠時間は、最低でも4時間は必要だと思うのです。
話を元に戻します。
私は、病人の様な自分の顔に”恥ずかしさ”を感じましたが「旅の恥は、掻き捨て」の気持ちで、そのまま旅を続けました。
旅行中に、私の顔を見て驚いていた人もいたかも知れません。
私は、宿を出て佐渡島内を巡る定期観光バスに乗り、島内で最も高い山の「金北山」や「佐渡金山」 「真野御陵」などを見て廻ったのです。
そして、その夜も同じ旅館に泊まったのです。
次の日、私は佐渡から能登半島へ行こうと決めて、フェリーの発着場のある佐渡島の南端である「小木」へ向かいました。そして、小木にバスで着いた時は午後1時頃でした。
フェリーの出発まで1時間ほどあったのですが、近くの海で”絣の着物に手ぬぐいを被った女性”がタライ船を操作している姿を見て、時間を潰したのです。
出発時間になり、フェリーに乗船した私は直ぐに甲板に出ると、フェリーが動き出しました。
同時に、佐渡おけさの音楽が港に流れたのです。
私は、”佐渡おけさ”の音楽を聴いた時、不思議な魅力のある曲だと思いました。
この曲を速いテンポで聞くと、明るく、楽しい感じに聞こえるのですが、スローなテンポで聞くと、もの悲しく、切ない、ような感じに聞こえるのです。
フェリーが港を離れると、この”佐渡おけさ”の曲がスローテンポで優しく流れたのです。
一人旅の私は、それを聞いて”何故か?もの悲しい気持ち”になって佐渡を離れたのです。
今日のお話しは、ココまでとします。
次回のブログは、Part27: 旅行記(能登)_Traveling alone_ として続きのお話しです。

2008年4月8日火曜日

俺の回想録 ≪Part25:学生一人旅≫_Reminiscences_Student_Traveling alone_

今日は、私が27歳で専門学校生_Student_だった時に一人で旅行_traveling alone_したお話しをします。
私の学校では、中間と期末にテスト週間があり、それぞれのテスト週間が終わると1週間テスト休みがありました。
2年生の2学期の期末テストが終了した時、明日からの”テスト休み”は何をして過ごそうかと考えました。
学校は、あと3学期の卒業設計の課題が終われば卒業となります。
私は、思い出に”一人で旅”_traveling alone_をしようと思いました。
27歳でも学生ですから、学割が使えるのです。これを生かして、今まで行った事が無い”日本海の旅”に出たのです。
私は、時刻表を片手にJR京浜東北線に飛び乗り、最初の地「新潟」に午後3時半位に着きました。
その日、私はただ当ても無く一人で新潟市内を見て歩きました。万代橋が架かる信濃川の岸近くにあったレインボータワーに昇り、また古町などを見て廻ったのです。
私は、暗くなって市内にある古い小さな和風旅館を見つけ「ココなら安いだろう」と思い中に入りました。 玄関に出て来たのは50歳位の女将さんで、私が「学生_student_なので学割で安く泊めてくれませんか?」とお願いしたら、少し疑う様子でしたが直ぐにOKしてくれました。
次の日、私は「佐渡」へ渡ろうと考え、旅館を出てフェリーの発着場のある信濃川河口の港へ行きました。次のフェリーの出発まで、30分以上の待ち時間があり、私は時間を持て余していました。
私は、持っていた時刻表を見て「新潟には飛行場があり、佐渡へは飛行機で渡れる」ことを知ったのです。
私は、27歳まで飛行機に乗った事は無かったので「飛行機で渡ろう」と決めました。
新潟空港は、新潟の街中からバスで1時間半程走った郊外の「松浜町」という所でした。バス停で降りると、広い松林があり、その林の中を1本の道路が飛行場まで延びていました。
私は、15分程歩いて飛行場のロビーに着きました。そして、切符を求めにサービスカウンターに行き、料金を知って驚きました。
私の持っていた時刻表は、少し古くて記載された料金が値上がっていたのです。
私は、戻ってフェリーにしようか迷いました。しかし、また2時間近くかけて戻る気にはなれませんでした。
結局、私は初めて飛行機に乗って佐渡へ渡りました。
私の乗った飛行機は、操縦士と乗客だけで10人乗位の小型飛行機でした。飛行機は、私を乗せて左右2つプロペラがもの凄い爆音と振動を伴って空に舞い上がり、20分後には佐渡の小さな空港に着陸したのです。
飛行機は、海上を飛んで佐渡に行くため、初めての私は「もし、墜落したら?」と考えたりして怖かったです。
今日のお話しは、ココまでとします。
次回のブログは、Part26: 学生一人旅(2)_Traveling alone_(2) として続きのお話しです。

2008年4月7日月曜日

俺の回想録 ≪Part24:母からの手紙≫_Reminiscences_Letter_mother_

今日は、前回に続く「家族愛」の話になりますが、私の学生生活も2年目に入り卒業の年になります。
同じアパートの住人で、私と友達になった「遠山君」は卒業して故郷に帰り、「長田さん」は別のアパートへ引越してしまい、学校以外では常に私1人の生活になりました。
しかし、私には孤独感はありませんでした。と言うよりも、孤独を感じている余裕が無かったのです。
学校の授業が終わると、直ぐに自分のアパートへ帰り部屋で課題の処理に追われ、日曜日も無い毎日だったのです。
そんな時でした、私が学校から帰ると郵便受けに1通の封書が入っていたのです。差出人には、母の名前が書かれていたのです。_Letter_mother_
私は、その時27歳まで身内から手紙をもらった事も、出した事も無かったのです。
手紙の内容は、「元気でやっているか?」「ちゃんと御飯を食べているか?」などに実家の近況報告が加わり便箋3枚に書かれていました。
私は、手紙を読み終えた時に”親の存在を再認識”させられたような、この年齢になっても”親に心配させている自分を許せない”そんな、やりきれない気持ちになったのです。
私は、自分の書いた字がへたくそで嫌いでしたから、手紙だと母が字を見てガッカリするのではないかと思い、返事は電話にしました。
現在まで、身内からの手紙は後にも先にも”この時だけ”になっています。今は、「一度位は書いてみても良かったのではないか」と思っています。
私が、社会人から学生になって思った事、感じた事があります。
それは、私の勝手な解釈かも知れませんが”学生は、ごく恵まれた状態の者である”と思ったのです。
アルバイトをしながらの学生は別ですが、一般に”学生は働かないで、お金を払って勉強している”のですが、同じ年齢だと”社会人で働いてお金を稼いでいる”のです。
この差は出費(マイナス)と収入(プラス)で倍の違いがあるのです。
また、私は全日制の学生でしたが学校には夜間部もあり、私達昼間の学生が下校していると校舎に明かりが灯り夜間部の生徒達が登校して来るのです。
私が、下校の遅い日に校舎の明かりの中で勉強している学生の姿を見た時に思ったのですが世の中には、「昼間働いて、夜は一生懸命に勉強している人達が大勢いる」、この人達のように日々努力している人としない人では日々の差は小さくても、時間を経た将来においては大差が付いてしまうのだろうと思いました。
そして、私自身はそんなに努力しては来なかったので「何か恐ろしい」ような気持ちになったのです。
人は、日々の生活にただ押し流されているのではなく、知らないだけで、多くの人は日々努力して生きているいんですね。
人間は、常に前向きな気持ちで生きる事が大切なんで、私も少しでもそう生きたいと思います。
今日のお話しは、ココまでとします。
次回のブログは、Part25: 学生一人旅_traveling alone_ のお話しです。

2008年4月6日日曜日

俺の回想録 ≪Part23:離れて分かる家族愛≫_Reminiscences_Family_Love_

今日は、私が東京で学生生活をしていて家族と離れていた時の私と家族_Family_Love_のお話しをします。
私が、専門学校に入学して半年位過ぎた頃、何の連絡も無く突然、父が私のアパートへ尋ねて来たのです。
私は、学校からアパートに帰って来ると父がアパートの門の所で、手に風呂敷包みを下げて立っていたのです。
私と父は、部屋に入りお茶を飲みました。父は部屋を見廻しながら「生活していて不便な事は無いか?」と言いました。そして、持っていた風呂敷包みを解いて、中から出てきたお米を私によこしたのです。
私は、「何もこんなに重い物を持って来なくても、米ならこちらでも買えるのに」と言ったら、「うん、そうだけどな」とだけ言って、少し寂しげに微笑んだのを今でも忘れません。
父は、昔からまじめ一筋で、少し不器用な人でしたから、父は私に何かを持って行ってやりたい気持ちから、商売の「お米」しか思い浮かば無かったのだと思います。
最初の晩、、父は私を連れてアパートから少し離れた繁華街で食事をしました。私は、食事をしながら、父と2人だけで家以外の所で食事をしたのは、小学校3年生の時に、一度だけ静岡の街に連れて行ってくれた時以来であると気付いたのです。
その為か?私は、少し照れくさい様な気持ちになりました。
その夜、私と父は四畳半に並んで寝たのです。
次の日、私はいつもの様に「駅の立ち喰いそば」を食べ学校に行き、授業が終わりアパートに帰ってみると、父が部屋を綺麗に整頓してくれてあったのです。そして、父は「おまえが元気でやってのが分かったから、明日帰るよ」と言ったのです。
その夜、私は父を誘い上野にある「鈴本演芸場」へ落語を聴きに行きました。私は、会いに来てくれた父と楽しい思い出を作りたかったのです。
落語を聴いてアパートに帰り、その後すぐに父と銭湯に行きました。父と私は、お互いの背中を流しあった後、夜空の下を2人並んでアパートに帰って寝たのです。
次の日、私が学校へ行く時間に合わせて父は帰りました。駅で別れる時に、父は私に「私が、東京で生活を始めた時に似ていた」と言い、「これを取っておけ」と言って1万円札を1枚、私に渡してくれたのです。
私は、「キャッシュカードを持っているから、いいよ」と言ったら、私のポケットの中へそのまま入れたのでした。そして、父は帰って行きました。
後で、私が帰省した時に母から聞いたのですが、父は母にも兄達にも黙って、私の所に行ったとの事でした。_Family_Love_
そんな父も、私が30歳の時「癌」で67歳の生涯を終えたのです。
今でも、父が私の所に突然会いに行った理由は、残った家族には解らないのです。
私は、父が末っ子である私の事が心配になり、また自分の若い時の事を私にダブらして見たかったのではないかと思っています。
今日のお話しは、ココまでとします。
次回のブログは、Part24: 母からの手紙_Letter_mother_ のお話しです。

2008年4月5日土曜日

俺の回想録 ≪Part22:東京での学生生活≫_Reminiscences_Vocational school_Student life_

私は、26歳の春に東京の専門学校_Vocational school_の建築設計科に 入学しました。
入学する前は、この年齢で入学するのは自分だけかと思っていたのですが、入学してみると私のクラスには24~27歳の人が6名いました。その他の人たちは高校からの現役生でした。
私達6名の中には、若い人たちとは馴染めない方もいましたが、私の場合には入学した時にクラス委員長に任命されて、クラスのみんなの前で紹介された事で、クラスの仲間全員と直ぐに馴染む事が出来たのです。
もし、あの時委員長に任命され無かったら、きっと私も他の5人と同じで若いクラス仲間と直ぐには馴染む事ができなかったかも知れません。
学校生活_Student life_は、毎日が課題に追われ忙しい2年間でしたが、今日までの私の人生の中で最も夢中になり、自分が熱くなって生活していた時ではなかったかと思われます。
また、私生活では住んでいたアパートに同じ学校の測量科に私と同じに入学した「遠山君」という23歳の男性と、同じ学校を卒業した社会人の「長田さん」という24歳女性に出会いました。
私達3人は、学校が共通する事から直ぐに友達になりました。
夜、銭湯に行くにも3人一緒でした。また、休日も3人で行動を共にしていました。
私が住んでいた所は、東京でも都心の外れでしたが、夜遅くまで街に音楽が流れて人通りも多く、田舎から出てきた私には「毎日がお祭りの様だ」と思いました。
アパートには、外に40歳位の男性と大学生も住んでいました。
私が入居して6ヶ月程が過ぎた秋、40歳位の男性が長田さんにストカー行為のトラブルを起こし、彼女は都内の別なアパートに引越したのです。
私と遠山君も、長田さんの引越しを手伝い、引越し屋さんのトラックの荷台に3人並んで座り都内を走った事が、今でも私の思い出になっています。
その後、私は学校の課題で毎日が忙しくなってしまい、長田さんとはあまり会えなくなったのですが、遠山君は長田さんのところに会いに行ってました。
ある日、遠山君が長田さんの所から帰って来て、直ぐに私の部屋に来て「今日、僕が長田さんの所に行ったら、長田さんが”今日も青島さんは一緒ではないの”と言ってたよ」と言って、彼は長田さんの様子を報告に来たのです。
そして、彼は「長田さんは、青島さんに好意を持っているみたいだよ」と言ったのです。
私は、その事を聞いて3人で銭湯に行った夜の事を思い出したのです。
それは、私と長田さんの2人が偶然先に銭湯から上がって、外で遠山君の出て来るのを待っている時でした、2人の間に沈黙でしたが、何か感じるものがあったのです。
私は時々、「彼女なら良い奥さんになるだろうな~」と思いました。しかし、私には恋愛感情とは違う友情の様な思いでした。
結局、2人の関係はそれ以上にはなりませんでした。
1年が過ぎ、遠山君は測量科を卒業して故郷に帰ったのです。私は、遠山君と一緒に彼の実家まで送って行きました。
長田さんは、仕事で私達とは同行でき無かったので、遠山君は残念そうでした。
もしかすると、遠山君は長田さんに好意を持っていたのかも知れません。
こうして、私の側から遠山君が去り、そして長田さんも去って行き、私は一人になりました。
しかし、私は2年生になって孤独に浸る余裕はありませんでした。
学校での授業がより忙しくなったのです。_vocational school_Student life_
今日のお話しは、ココまでにします。
次回のブログは、Part23: 離れて分かる家族愛_Family_love_ のお話しです。

2008年4月4日金曜日

俺の回想録 ≪Part21:新たな出発≫_Reminiscences_New departure_

前回、このブログでお話した続きになりますが、私は彼女を失ってから自分が親元で暮らす生活に「身の周りの世話は親がしてくれる、今の生活でいて良いのか?」と考え、「何か自分で自分を変えたい」と思い、親元を離れ自分でアパート生活を始める事にしたのです。_New departure_
その頃には、会社の仕事に責任を持たされる立場になっていて、自分の気持ちを紛わせる為にも仕事に没頭しました。
そして、2年が過ぎ時(1976年)会社を退職したのです。
当時、オイルショックがあり日本経済が急激に不況が襲ったのです。私の会社も不景気となり、社員の待遇も悪化していました。
私は、それまでの会社生活で忘れかけていた「もう一度、勉強を仕直すために上の学校(大学)へ行きたい」という思いになったのです。
しかし、私の経済的余裕だと「受験勉強1年」、「大学生活4年間」は不可能でした。それで私は、「今までの土木設計の仕事で得た知識と技術も生かせる、新しい分野の建築設計を学ぼう」と考えて、専門学校に入学する事に決めたのです。
会社に在職中の時でしたが受験して「合格」したので、家族に退職と入学の報告のため実家に帰ったのですが、兄達は「26歳にもなって何を考えているだ?」と言い、母は「今の会社でもう少し辛抱したら」と反対しました。
ただ、父だけは「男が行くと決めたなら行けば良いさ」と言ってくれたのです。
この父の一言で、私の入学が認められたのです。
これは、私が入学した後に母から聞いたのですが「あんたは、お父さんと同じだね・・・」「お父さんは、尋常小学校(義務教育)しか出ていなくて色々の仕事したけど、ある日、一念発起して東京の工業専門学校の機械科に入って勉強して飛行機を作る技師になったんだよ」「だから、お父さんは自分とあんたが似ているから反対しなかったんだよ」と言いました。
私は、入学する事に決まり会社への「退職届け」をアパートで夜中まで、書いては気に入らなくて何度も書き直しました。
そして、次の日に上司へ「退職願い」を提出したのです。
会社の同僚の中には驚く人、信じ無い人などもいましたが、みんなで盛大に送別会を開いてくれました。
私は、入学の準備を考慮して2月末日で退職して、4月始めの入学へ向けて準備をしました。
それまで借りていた静岡のアパートを引き払い、東京の北区に新たに借りたアパートへ引越すのです。 私の引越しには、兄(次男)が協力してくれて実家のトラックに荷物を積んで、私と二人で運んでくれました。
東京で借りた私のアパートは、築20年は過ぎているであろう木造の4帖半で半間の流しと半間の押入れが付いて家賃は1万円でした。隣もアパートで、40cm程しか離れておらず昼間でも薄暗い部屋でした。兄も部屋を見て驚いていました。
こうして、私の新たな生活_New departure_が東京で始まったのです。
今日のお話しは、ココまでにします。
次回のブログは、Part22: 東京での学生生活_Student life_ のお話しです。

2008年4月2日水曜日

俺の回想録 ≪Part20:恋の破局≫_Reminiscences_Collapse_love_

今日は、私が長く交際してきた人との恋_love_が破局_collapse_したお話しをしたいと思います。
私が、社会人になってバスで通勤していて知り会った友達のグループの中に美容師の女性がいました。
また、私にはグループとは別に高校生の時、いや正確にはそれ以前から交際していた彼女がいたのですが、グループの美容師の女性とも交際していたのです。美容師の女性との交際が4年程経ったある日、中学時代からの友達である松野君から私に電話が来たのです。
彼の義姉さんは、日本舞踊の師匠で私の彼女に踊りを教えていたのです。
彼は、電話で「杉山さんが、町のお祭り準備で地元の青年団に踊りを教えていて、青年団の一人に結婚を申し込まれて、彼女は今悩んでいるらしい」と言って来たのです。
その時、私と彼女は24歳でした。
私は、彼から連絡を受けた時に、すぐに彼女へ連絡を入れて彼女と話し会えば良かったのですが何故か出来ませんでした。
その時、彼女との間に「美容師の女性」と私の関係が誤解されていたのです。
私は、彼女が最後には私を選ぶだろうと過信していました。
それから、3ヶ月程してまた松野君から連絡があり「彼女が青年団の人との結婚を決めたようだけど、君は彼女と話合ったのか?」と言われました。
私は、信じられませんでした。「信じられない、どうしたら良いのだろう、困った」と思いました。
当時、私達の年齢24才では女性は結婚適齢期と言われていました。
私は、直ぐに彼女に「結婚を止めろ」と言い、「私のために何年待ってくれ」とは言えなかったのです。
その時は、私の2人の兄達も独身で、この後何年待ってもらえば結婚できるのか考えてしまったのです。
私は、「どうしたら良いのか」と2週間程悩みました。その間、毎日彼女の事で頭の中がイッパイでした。そして、私には彼女が必要で、その他の女性は考えられない事に気付いたのです。
そして、直ぐにでも彼女の結婚を止めなければと思い、会社の帰宅途中の電話ボックスから彼女の家に電話をしたのです。
電話には、彼女のお父さんで私の幼稚園時代の園長さんが出て「京子は、先週の日曜日に結婚して新婚旅行に行ってます」と言われたのです。
私は、一瞬頭の中が真っ白になり、後の言葉が言えないまま受話器を置いていました。
そして、「あ~、全てが消えてしまった。自分にとって最も大切な人を失ってしまった」と思いました。
その後に、私の体は虚脱感に襲われました。_collapse_love_
この結果は、自分で招いてしまった事かも知れませんが、なぜ彼女は私に何の連絡も相談も無く、一人で結論を出して結婚してしまったのか?私は、彼女を恨みました。
そして、どうにか私が彼女への諦めが付までに1年程かかりました。
そして今は、時々あの頃の事を思い出すと「なんで、自分はもっと素直に行動できなかったのか?」と後悔をしているのです。
時々、私が思い出すのには理由があるんです。
それは、彼女の嫁ぎ先が私の実家から500m程しか離れていないのです。
今でも、時々私が実家へ帰る途中で偶然に彼女を見かける場合があるのです。お互い道で会うと言葉を交わす事はありませんが、目と目で挨拶をする程度です。
私は、できるものなら今の彼女が私に対して、どのような気持ちでるのか知りたいと思いますが、それは無理だろうと思っています。
結局、お互いの気持ちは言葉で交わす事は無く、分からないまま年老いて死んで行くのだろうと思っています。
今、このブログを書いている時でも、少し切ない気持ちになっています。
今日のお話しは、ココまでにします。
次回のブログは、Part21: 新たな出発_New departure_ のお話しです。

2008年4月1日火曜日

俺の回想録 ≪Part19:新米社員の青春≫_Reminiscences_New face_Youth_

この私のブログは昨日、一昨日とお休みしてしまいました。それは、娘が今年4月に県外の大学に入るので、その住居の準備で家を留守にしていたからです。 そして今日、家に帰って来ました。
これからも、頑張ってブログを書き続けて行きたいと思っていますので、よろしくお願いします。
さて今日のお話しは、私が社会人_new face_youth_に成り立ての頃、私(若者達)の生活の様子をお話しします。
私が、社会人1年生になった1968年頃は、一般に乗用車の数も少なく、私はバスと電車を使い通勤していました。バスの乗客も多い時代でした。
私の実家に近い所を通るバス路線は最終が20時30分だったので、私は仕事がら毎日この最終バスで帰っていました。
毎日、同じバスに乗るものですから、いつも私と同じバスに乗っている人達とも自然と挨拶するようになり、同年輩の人とは友達になり、その友達の友達とも知り合いになり、友達の輪が広がって大勢の友達が出来ました。
当時は、電車の駅の近くには必ず「喫茶店」があり、コーヒーを飲みながら読書したり、友達と会話したり、待ち合わせの場所に利用していました。
一般の高卒者の初任給が2万円弱(18,000円位)で、コーヒー1杯が80~100円でした。私達若者は、休日には喫茶店で友達と待ち合わせて、バスと電車に乗って繁華街に出て映画を見たり、また当時は若者からお年寄りまで男女の区別無く大人気だったボーリングなどをして楽しく過ごしていました。 私は、ボーリングが特に好きで夢中になりました。昼間ボーリング場でプレイするには1~2時間待ちが普通で、料金は1ゲーム250円程でした。
しかし、私は毎週休日には、家から朝一番の始発バスに乗って近くの街のボーリング場に朝8時間でに着き「早朝ボール」をしていました。
「早朝ボール」は、1ゲーム150円と格安でプレイが出来て待ち時間も殆ど無いのです。
その甲斐あってか?、会社のボーリング大会ではいつも入賞できました。
当時、私には通勤バスで知り合った友達のグループが出来ました。
グループは男性5人に女性4人で、クリスマスやお正月には皆で集まって遊んだりしていました。
私が、グループでの楽しかった思い出として、今でも残っているのは1970年3月から9月までの半年間開催され、会期中に6421万8770人もの人々が訪れた国際博覧会(大阪万博)へ1泊2日でグループのみんなと行った事です。
私達のグループの中では、カップルが出来て結婚した人もいます。
私は、当時グループとは別に交際していた女性(以前、このブログで紹介)がいました。
私が卒業した高校は、男子校のため彼女以外の女性と知り合った事が無かったのですが、グループが出来てからは、彼女以外にグループの中の女性と親しくなりました。
そのため、彼女と付き合う時間が少なくなっていき誤解が生じたりして、私と彼女の間に少しずつ気持ちにズレが生じて、それが破局へと進んで行ったのです。
その時は、私と彼女との仲で誤解が生じても、時間が来れば誤解は解けると軽く考えていました。
今に思えば、その時彼女もグループの仲間入れて、一緒に楽しく付き会っていれば良かったと後悔しています。私は、彼女だけはグループの仲間とは別の場所に、自分だけのものとして置きたかったのかも知れません。
そして、私が学んだことは「人間は誤解が生じた場合、時間は誤解を解いてはくれない。誤解された人は、その誤解を解くための努力はしなければいけない」と思います。
今日は、ココまでとします。
次回のブログは、Part20: 恋の破局_love_Collapse_のお話しをします。